昨日、みさとさんが書いてくださったこちらの記事。


Wasei Salonは「はたらくを考える」というテーマを掲げている空間であるはずなのに、はたらくについてあまり考えていないような気がするという話は、5年間もこのサロンを運営していると、これまで他のメンバーさんにも何度も言及してもらったことだったように思います。

この点、意外だと思われるかもしれないですが、僕は極端な話、この場所で「はたらく」については、ほとんんど考えなくてもいいと思っています。

それよりも、古典に触れたり、答えのない問いについて仲間とともにゆっくりと丁寧に対話をすることのほうが、圧倒的に重要だと思っている。

それは、「はたらく」を考えることから目を背けていたり逃げていたりするわけでもなく、それこそが実は最終的には「はたらく」を考えることに大いにつながると思っているからです。

それは一体どういうことなのか。

今日はそんなお話を、少しだけこのブログにも書いてみようかなあと。

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この点、何かのトピックについて「問い続ける」や「考える」ということは、何か自分の意見を表明すること、つまり「言葉にすること」だと思われがちです。

でも、それよりもまずは何よりも「沈黙すること」が一番大事なことなのかなと思っています。

つまり、その言葉を無限に生産し続けるという、ベルトコンベア状態から降りること。

これは逆説的な話ですが、ひとは自分でちゃんと考えないといけないと強く思うからこそ、その切迫感に迫られて、必死で「誰かの言葉」を借りてこようとするわけですよね。

逆に、考えなくてもいいこと、自分の意見がなくてもいいことを、わざわざ考えようともしないし、人の言葉を借りようともしません。

でも、「はたらく」に関しては、社会人として「自分の意見」があることがこの世間の中で当然のように思われていて、それこそが大人の嗜みだと思われているからこそ、自らの答えが見つからないことに焦って、その答えが具体的に書いてありそうなビジネス書や、インフルエンサーの大きい声の意見に飛びついてしまう。

それこそが、自分で考えて意見を持つことだと思い込んで、です。

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でも、「はたらく」のように様々な事象が複雑に絡み合っていることに対して、すぐに自分の意見なんて持つことができないのは、当たりまえだと思います。

むしろ、ここでまず一番最優先に大事にするべきことは、他人の意見に流されないことのほう。

つまり「沈黙すること」こそが大事だとはそういう意味です。

自分の言葉で考えたり問い直したりするのは、それからでも決して遅くはない。

言い換えると、ゼロからプラスにするよりも、マイナスからゼロに戻る行為のほうが、「はたらくを考える」という点においては、非常に重要だということです。

いちばん価値のある変化は、まさにここにあるといっても過言ではない。

なぜなら、ゼロからプラスという状態というのは、ゼロになってイチが始まれば、あとは勝手にいくらでも本人の中から自然とうまれてくるはずだからです。

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これをわかりやすく喩えるのなら、まずは幼虫から「サナギ」になることが大事なんじゃないかと思います。

それが「私たちのはたらくを問い続ける」ということにおいて、ものすごく大事な過程だなと。

サナギにさえなることができれば、あとは「とき」が満ちれば、自然と孵化をする。自然とメタモルフォーゼするわけです。自らの生命力のようなものを用いて。

でも、サナギの期間を経ないと、いつまでたっても、葉っぱの上で尺取り虫の如く、あくせく動き回って、いつまで経っても飛び立つことはできない。

どれだけ栄養価の高い葉っぱをいっぱい食べてみても何の意味もない。

で、現代人が陥っているのはまさにここで、本当は蝶になりたいと願いながら、いつまでたても葉っぱの上であくせく動き回り続けていることにある。

だったら、「サナギ」になって良く、そのことに対して誰からも何も文句を言われない空間を作らないといけない。

いま、この世の中で一番足りない空間というのは、そういう空間だと僕は思っていて、それがWasei Salonです。

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でも、一般社会や、クローズドではないオープンな世界では立ち止まっていることを決して許してくれない。

意図的に立ち止まった途端や、沈黙した途端に「それはモラトリアムだ!」と糾弾されてしまう。

でも、どんな作家であったとしても、沈黙しているあいだというのが必ず存在します。

たとえば、宮崎駿さんは、映画『君たちはどう生きるか』の作品を制作している最中、高畑勲さんが他界してから一年間制作がストップしてしまったそうです。きっと深く沈黙していたのでしょうね。

宮崎駿さんでさえ、そうなのに、なぜ僕らが常に走り続けられると思っているのか。

近年はそれを発酵と呼んだり、熟成と言ったりするけれど、自分にとって腑に落ちる感覚として好きな言葉を選べば良い。

でも、間違いなく言えることは「沈黙」している状態というのは、深く考えるために必ず通る必要がある関所や通過点であり、それはつまり深く考えることと同義なのだと思います。

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で、僕はこういう状態のときこそ、「叡智」にふれることがものすごく大事だと思っています。

手癖のようなもので、脳ぐせのようなものが、人間にはあってしまうから。

「考えるな、沈黙しろ」と言っても、そこで何かしらを考えてしまう。

道元はそのような状態の人間に対して只管打坐と語ったし、本来はそれが理想的なんだろうけれど、現代人は一足飛びに只管打坐は行えない。

だったら、まずは「道元は、なぜそんなことを言ったのか?」のようなことに耳を傾けてみる。

そのような数限りない先人たちの「叡智」に触れるために古典にふれてみたり、答えがまったく存在しない対話、それこそ「趣味とは何か」と深く潜る疑似体験をしてみたほうがいいと僕は思います。

そうすれば自然と、「なるほど、だから座ること、沈黙することが大事なのか」と現代人にわかりやすい納得感のある理論の形で、一度は到達できるから。

そして、そうなったら実際に自らの体験を繰り返して身体や肚に落とし込めば良いのではないでしょうか。

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さて、最後に、今日の内容に関連して、以前批評家の若松英輔さんが日経新聞で書かれている「言葉のちから」という連載の中で、「沈黙」に関してものすごくハッとさせてくれるような内容が書かれてありました。

ここで、少しだけ引用し、ご紹介してみたいと思います。

以下は、「噓のない場所〜武者小路実篤    沈黙の世界」というタイトルの記事からの引用となります。

他者の語ること、書くことを字義だけで理解する。そこには「正しい」理解は存在する。学校の試験の世界では字義が理解できればそれでいい。しかし、誰かと友情を、愛情、あるいは信頼を育もうとするとき、字義を超え、秘義を分かち合おうとしなければ関係は、あるところまでしか深化しない。

「思っていることがあるなら、言って欲しい。言葉にしなければ分からない」、そんなことを自分も言ったことがあるし、誰かが言うのも聞いたことがある。

この発言は、まったくその通りで本当のことだ。しかし、こうした発言が飛び出したとき、人間関係にひびが入ることがあっても深まることは少ないのではないだろうか。言ったことだけを理解するとき、人は字義の世界から一歩もでていない。秘義に向かって開かれるとき、自(おの)ずと沈黙に寄り添うようになる。

(中略)

武者小路実篤が「沈黙の世界」(『人生論・愛について』所収)と題する一文を書いている。そこで彼は「言葉の世界に住んでいると、沈黙の世界がなつかしくなる」という。何気ない文言だが、沈黙の世界こそが、故郷と呼ぶべき場所であることを強く思い出させてくれる。


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毎日毎日こうやってブログを書いて、毎日毎日Voicyでもずっとペラペラと喋り続けている人間が、こんなことを言っても、何の説得力はないだろうなあとと思いつつ、本当に強く思います。

以前もご紹介したように、維摩経の中に出てくる維摩のように、本当に「維摩の一黙雷の如し」なのだろうなあと思います。

だからこそ、僕は、みなさんに「沈黙」から「自分が変わる」という体験を味わってもらいたい。

もう現代のSNSにおいてはもう自分が変わることはできないから。でも、自分が変われば世界が変わる、本当にそう思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。