今日は、昨日の続きです。
「沈黙」という言葉を用いると、自然と「無関心」や「忘却」を思い浮かべるひとは多いんだろうなあと思います。
だからこそ、「沈黙」という言葉にはどこかネガティブなイメージとして捉えられてしまいがち。
でも、「沈黙」というのは、本来はそれらの概念とは全く似て非なるものです。
今日はそんなお話を少しだけ書き加えてみようかなと。
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この点、多くのひとは、他者からそれが「無関心」や「忘却」だと思われたくないがために、無理やりにでも言葉を重ねてしまうのだと思います。
そして、余計に他者との関係性や自らの内面をこじらせていく。
じゃあ、そうならないためには一体どうすればいいのか。
これってきっと、他者の「沈黙による贈与」を発見し受け取ったことがあるか、っていう経験が、ものすごく重要な要素になってくるんだろうなあと思いました。
言い換えると、「作為の贈与」だけでなく「不作為の贈与」に対しても、耳を澄ましたことがあるかどうか、みたいな感覚です。
贈与というものは、何か他者が行う能動的なアクション、つまり作為だけでしかおこらないと思うひとには、きっと「無関心」や「忘却」との微妙な違いがわからないんだと思うんですよね。
でも、あえて「無作為」を貫く、強い関心があるからこそ「沈黙」をしているという状態だって、本来はあり得るわけです。
そして、実はそれこそが一番むずかしいことだったりもするんですよね。
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たとえば、鉄棒でも何でもいいのですが、子どもが何かに一生懸命に挑戦している姿を想像してください。そこでその子どもに、手を差し伸べるのは簡単です。
実際に手を差し伸べなくても、何か助け舟を出すように、言葉でヒントを与えることもできるかもしれません。
でも、そこで何もしないでグッと我慢していることが、何よりもその子供にとっては、いちばん重要なシーンもあるはずなんですよね。
「あくびも、せかすこともせず、未来は待ってくれていた」と昔、槇原敬之が歌詞で書いていたけれど、まさにそんな感じです。わかりやすいキャラクターなら、やっぱり安西先生みたいなもんですよね。
そしてそれは、決して自分とは異なる人間としての子どもという存在だけではなく、自分の中にいるもう一人の自分、そんな子供のような自分に対しての「沈黙」もまた然りだと思います。
大人の私が「沈黙」を通して、自分自身を見守るというような。
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さて、こうやって考えてくると、この「沈黙の贈与」に気がつくと私の世界認識はガラッと変わるということにも気づけるはずなんです。
なぜなら自分に送られた数々の「沈黙の贈与」を自然と発見し、それらに対して本当の意味で感謝できるようになるはずだからです。
昨日と世界は何も変わっていないはずなのに、自分自身が完全に変わってしまったことによって世界がガラッと変わって見えるという体験をしてしまう。
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これはきっと、他者の作為の贈与に対して、なぜ自分がありがたいと感じるのか、という方向から考えたほうがわかりやすいかと思います。
それは、自分が「作為の贈与」を他人に対して施したことがあるからですよね。
目の前の相手に喜んでもらおうと、相手に少しでも役に立てたら嬉しいと思って、何かしら贈り物やプレゼントをしたことがあるから、ひとからそうやって送られる贈り物やプレゼントに対しても、ちゃんと敏感になれる。
つまり、自分が他者にソレを提供したことがあるからこそ、その自分の経験を一つの拠り所にして、相手に対しても感謝の念を抱くことができるわけです。
逆に言えば、そういう贈り物がことごとく水泡に帰す経験も、人生の中で何度もくりかえしてきたからこそ、自分以外の他者が、自分に対して送ってくれた贈与やプレゼントに対して、それを見逃すことなく、強くしっかりと受け取りたいと願うようにもなるんだと思います。
せっかくの相手からの好意を無碍にしたくないと思って、です。
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そしてこの構造というのは「無作為の贈与」でも、まったく同じことが言えるのではないでしょうか。
自らが他者(もしくは、自分の中のもうひとりの自分)に対して、「沈黙の贈与」を贈ったことがあるからこそ、他者が自分に対して贈ってくれた「沈黙の贈与」に対しても自覚的になれる。
それはきっと、ただ共にいる、そんな祈りに近いものでもあるのだと思います。
これこそまさに、沈黙の秘儀と呼べるような代物だなあと感じます。
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さて、ここで話は一気に飛躍してしまって恐縮なのですが、この「沈黙の贈与」の最上級、それがいつだって常に沈黙しかしていない「神」という概念にたどり着くのではないかと僕は思います。
「御身はわれとともにいたまいし、 されどわれ、御身とともにいず。」
これは、以前もご紹介したことのある宗教のきほんシリーズから出ている『「愛」の思想史』という本の中で紹介されていた、アウグスティヌスの『告白』の中に出てくる一文です。
この言葉と共に紹介されていた話が非常にわかりやすく、今日の内容にも関連してくると思うので、再び本書から少しだけ引用してみたいと思います。
キリスト教に回心し、神との深い相互的な愛の関係のうちに生きるようになったアウグスティヌスは、神と「共にある」在り方を獲得しました。そして、そこで彼は一つの大きな気づきを得ます。自分が神と共にいなかった若き日にも、神の方では常に自分と共にいてくださったのだ、だからこそ、自分を常に見守り続けてくださっていた神の導きのもとに、最終的に自分は神と共にある在り方へと導き入れられることができたのだ、と。
極めて凝縮された見事な表現のなかで、アウグスティヌスは次のように告白しているのです。すなわち、自分が「あなた(御身)」を愛するようになったのは比較的最近のことだが、「あなた」の方では、私があなたを愛し始める前から、いや、あなたの存在そのものを認める前から、私と共にいてくださって、私のことを愛し導いてくださっていたのですと。
そういう仕方で常に人間一人ひとりと共にあり、一人ひとりを見守り、導き続けてくださるところにこそ神の本質があり、それこそが「神の愛」と呼ぶべきものだという気づきが、この美しい文言のうちに表現されているのです。
まさに今日書きたかったのは、この話です。
あのときも、このときも、あのひとは私に対して「沈黙」することで不作為の贈与を贈ってくれていたという発見。
それこそが、私の世界の見え方をガラッと大きく変えてしまうような転機になるんだと思います。なにより「神の御身」さえ、それによって発見できてしまうんだから。
沈黙の重要性、本当の価値や気づくべきことというのは、きっとこの贈与の発見にあるのかもしれない。
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今日の話は間違いなく好き嫌いが分かれる話だとは思いつつ、自らが「沈黙」をするということ、それを自分自身で実践してみるからこそ見えてくることって、必ずあると思います。
ゆえに、「沈黙」をぜひとも体験してみて欲しい。
このような沈黙の贈与は、他者にはほとんど気づかれないはずです。何ならその沈黙する姿を誤解されて、あのときあなたは何もしなかったと恨まれることさえあるかもしれない。(未来の自分が過去の自分、つまり今の自分を恨むかもしれない)
それでも、沈黙の贈与を贈ることができるのかどうか。うまくは言えないですが、それがいま僕らに強く問われている気がしてなりません。
「他者が私に何かをしてくれた」ではなく、あのときに何もせずただ黙って見守ってくれていた、ということにこれでもかというほどの感謝が込み上げてくる瞬間に、僕は立ち会いたい。
それが、何も持っていないと思っていた自分が、いかにたくさんの贈り物を受け取っていたかを発見する契機にもなりえるわけですから。
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結果として、世界と私の間のコミュニケーションに新たな回路が開かれる。それは、これまでまったく開けたことのなかったような扉がひらく瞬間だと思います。
それをぜひ味わってみて欲しいなと強く僕は思う。
ここのフェーズにたどり着くためには、決して既存の宗教や宗教施設における体験だけがすべてじゃないと思いますから。
先人たちへの敬意はしっかりと払いつつ、それさえも、現代に合わせてちゃんと共同体として新たにハンドメイドしていきたいなあと僕なんかは思います。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。