インバウンド観光が復活してきて、最近よく頻繁に議論されているのを耳にするのが、「日本のローカルには、10万円以上で泊まれるような宿が圧倒的に少ないから、もっとたくさんつくったほうがいい」ということ。

世界の富裕層にとっては1泊10万円でも安いぐらいで、彼らはそういう空間こそ求めているんだと。

僕自身、旅好きとして国内外の観光地を渡り歩いてきて、彼らの言いたいことはとてもよく理解できますし、実際にそのようなニーズがあることも間違いないかと思います。だから言いたいことには、とても同意します。

ーーー

ただ一方で、既に存在するような日本のそんなリゾートホテルに実際に行ってみると、どこも大体同じで「地元の自然と調和したラグジュアリーな空間と、地元の食材を使ったラグジュアリーなお料理をここぞとばかりに用意しました」みたいな空間ばっかりなんですよね。

そして「あとはお忍びでどうぞ、あなたたちの非日常とプライベートの空間をお守りします」というような。

とにかくそうやって「ラグジュアリー」の一辺倒であって、あとはプライベートさえ守っていればそれでいいと思っている感じ。言葉を選ばずに言えば、そんなパパ活斡旋施設みたいところばっかりだなあと思います。

ーーー

どうしてそうなるのかと言えば、やはり彼らが興味があるのは富裕層が落としてくれる「お金」や「数字」だけだから。

でもそうやって観光客として訪れてみて、お金を使ってみても逆に虚しくなるというか、孤独感をより強く感じてしまうんですよね。そしてもういいやってなる。なんというか、虚無感がスゴいんです。

ーー

地域からも完全に浮いてしまっているなあと思います。というか、最初から浮くことがわかっているから、人里離れたところにあったりもする。それが隠れ家的で、わざとここにつくっているんだといわんばかりに。

地域コミュニティから完全に切り離されて、国内の人間が一切つかっていない富裕層向けのインバウンド用の宿ほど虚しいものはない。

現地の暮らしみたいなものにまったく紐づいていないなあと思います。

以前、このブログの中でもご紹介したことがありますが「ものづくり」がまったく行われていない空間は、レプリカであって、それはただのラグジュアリーアートなんですよね。寝泊まりすることができるハイブランドの店舗が田舎にあるだけ、みたいな。

以前、小倉ヒラクさんがTwitterで「日本の為政者は、基本的にサービスの受け手の感性や知性を舐めてるんだなと思います。表層をどれだけ飾っても、中身や奥行きをきっちり査定できる市民がたくさんいることを勘定に入れない。相手へのリスペクトに基づいて意思決定をしてほしいものです。」とツイートしていましたが、本当にそのとおりで。

まさに観光客を舐めてるなあと思わされます。

ーーー

一泊10万円の宿だから良い宿だというわけじゃない。

もっと体験ベースで考えないと意味がないよなあと思います。

ラグジュアリーじゃない意味での「真の豊かさ」みたいなものを体現した1泊10万円以上の価値を提供できている宿が、いま日本にはあまりにも少ないなあと思う。

きっとこれは、インバウンド観光客や国内の富裕層の旅行者を金づるとしかおもっていないからそうなるんだろうなと思います。単純に、富裕層の発想におもねる空間になってしまう。

お金落とすのが彼らなんだから、彼らのニーズに合わせたものを提供するのが当たり前ということなんだと思うのですが、でも、それってめちゃくちゃマーケットインの発想なんだと思うんですよね。

ガラケーや家電、自動車産業にはマーケット・インの思想はダメだと散々言いながら、観光産業はいつもめちゃくちゃにマーケット・インなのが、いつも本当に不思議だなあと思います。

ーー

きっと彼らは、ニセコみたいな場所のわかりやすい成功を前提としていて、そこにバンバン新しい外国人向けの宿が建設されているから、それに続けってことなんだと思います。

でもあれだって決して宿が先行していたわけじゃない。

ニセコという札幌からそう遠くない土地に、世界有数のパウダースノーがあって、もともとはアクティビティが中心だったわけですよね。他にも、羊蹄山もあったりするわけです。

つまり、本来はもっと先に、西田幾多郎の言うところの「純粋経験」に訴えるようなことがあったんだと思います。

ーーー

この点、先日、NHKの歴史探偵という番組を観ていたら、江戸時代の旅ブームのときにお伊勢参りで、十数人の宿泊で現代の価格に換算すると、1回に600万円ちかい金額が使われていたという話が語られていましたが、

それは、伊勢神宮というある種の宗教的な空間における「純粋経験」と呼べるようなコンテンツと共にあったからこそ、だと思うのですよね。

逆に言うと、そういう「純粋経験」と呼べるような体験がちゃんとあれば、いくらでもひとは世界中から集まってくる。

その集まってきたひとたちを見ては、金に糸目をつけない富裕層もつられてやってくるわけですよね。だからこそ、今のニセコのように一泊あたり数百万の宿も成立する。

本来は、この順番のはずなんですよね。

でも、数字ばかり追っているひとたちや、インバウンド観光のマーケット規模とのマッチングばかりを意識しているひとは、まず高級の宿があればいいと信じ込む。

そんな下世話な空間に持続可能性があるわけがない。持って20年だと思いますし、そもそも誰にも応援もされないと思います。

本当に持続可能な空間とは何かってことを、今一度考える必要があると僕は思います。

ーーー

さもないと、バブルのころのリゾート開発の二の舞いになりかねない。

日本全国を取材して回っていると、本当にいたるところに当時の開発の残骸が転がっているのをよく見かけます。

しかも、それを壊すお金さえも捻出できないから、そのまま放置されてしまっているし、誰も管理しないので、本当に酷いありさまです。

そのような廃墟化したバブルの負の遺産を見せてもらうたびに、「どうして当時の人々はこんなものをつくってしまったんだろう…?」と純粋に疑問に思っていたけれど、今のインバウンド観光の熱狂をみている限り「あー、今みたいな資本主義的な発想に毒されたひとたちだったら、これをつくるわなあ」と本当に思わされます。

つくろうとしているものは多少異なっても、やろうとしていることは大体一緒。

でも、映画『すずめの戸締まり』でも描かれていたけれど、それは弔うのは一体誰なのか、っていう話なんですよね。

今は、インバウンド観光の大波に浮かれていても、いつ台湾有事などが始まり、日本が戦争や自然災害なんかにも巻き込まれて、あんな国に行くべきではないとなってしまうかはわからない。そうなったら、また開発途中のものがそのまま放置されるのは目に見えています。もちろん、コロナ以上に長引く感染症もやってくるかもしれない。

くれぐれも、次世代にはそんな負の遺産を残さないで欲しい。

現代の感覚から生み出されるラグジュアリーではなく、本当の意味で居つどのような時代でも豊かな日本でしかできない空間を探求して欲しい。

お伊勢参りのように、いつの時代にも必ず通用し再建可能なものをつくろうという気概で望んで欲しいなあと強く思います。

そして、それというのはたぶん、観光のための観光施設づくりではないはずです。

ーーー

富裕層が使いきれない資産を、なんとか消費しようとするための時間つぶしの場所を提供して、そこで掠め取ったお金でお茶を濁すのではなく、一度訪れてみたら、それまでの人生観をガラッと変えてしまうような宿を全国につくって欲しい。

日本という国の自然風土と、その土地が持つ暮らしや文化を最大限活かす場所であれば、必ずそれができるはず。

実際、石見銀山の他郷阿部家という古い武家屋敷を改装した宿は、まさにそんな場所だと思っています。10万円以上払ってでも、一生に一度は必ず訪れてみる価値のある宿です。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。