最近、ストイックについてよく考えています。
 
昨日Voicyで配信した、らふる中村さんとの対談もそうですし、同じくVoicyで配信されていた若松英輔さんによる「ストア派哲学」の特別講義の内容も、とても強く印象に残っています。


今日は、なぜストイックは嫌われるのか?そして、どうすれば「ありのまま」のケア的な態度とバッティングせずに済むのか?

そんなことを、あらためてこのブログの中で考えてみたいと思います。

ーーー

まず始めに、「ストイック」という言葉について、あらためて整理してみたいなあと思います。

この点、現代を生きる僕らは、不安や恐れを常に抱えながら暮らしています。そしてそんな不安や恐れが嫌だから回避しようとすると、自然と感情や欲求に流されてしまいがちで、その結果「自堕落」な方向へと進んでしまうことがある。

そんな自堕落な態度へのアンチテーゼとして存在しているのが、ストイック。

具体的には、「自分に厳しく、欲望や快楽に流されず節制する態度」や「感情をあまり表に出さず、耐える態度」といったもの。

たとえば、「欲望に溺れるな」とか「感情に振り回されるな」とか「規律を守れ」とか。そして「不安や恐れを乗り越えるのが大人であり、プロの責務でもある」という考え方ですよね。

でも、今の時代、こうした“マッチョな言葉”というのは、もはや良くも悪くも、ほとんど通じにくくなっている。

ーーー

では、それはなぜか?

今は、未来が完全に不透明です。

未来に希望が持てた時代は「やればやっただけ、見返りがある」という確信があった。そして、ストイックになった分だけの費用対効果も、他者に明確に説明しやすかった。

一方で、先行き不透明な不安や恐れはよりリアルな姿形をとって、ときに影として肥大化をして、僕たちの目の前に立ちはだかります。

だからこそ、足がすくんでその場に立ち尽くしてしまう。そして余計に、ストイックになった結果としての「見返りは何か」にこだわり、コスパタイパ論争に終始してしまう。

だとしたら、ただ真正面から「ストイックであれ」と叫ぶのではなく、相手の中にある不安や恐怖に寄り添うこと、それがいま本当に求められている優しさなのだろうなと思うのです。

「そんなに強くはあれないよ」と思う人たちに素直に寄り添う。それはきっと自然な帰結だと僕は思います。

ーーー

しかし、ここで当然のように、ひとつの問題も生まれてくる。

それは、「ありのままでいい」というケア的な態度が、世の中に広がりすぎてしまうことですよね。

結果として「変化しない」ことが正義になり、かえって自堕落に導かれてしまう危険性がある。

実際、2020年代以降は、このケア的な態度が一つの流行になって、というか流行になりすぎて、批判的な声も大きいわけです。

「自分を責めず、比較せず、今の自分を肯定しよう」この優しいメッセージは確かに現代を生きるひとにわかりやすい救いをもたらしてくれたわけですが、それは容易に「変わらなくてもいい」という停滞へと転じる危険性も孕んでしまうわけですよね。

ーーー

で、ストイックな人たちからすれば、それはただの「甘え」にしか見えない。

だからこそ、ストイックな側は「そっちに流されてはいけない!」と強く批判する。なんとかその自堕落から助け出そうとする。

もしくは、他人がどうであれ、自分だけは絶対に流されまいとする。

それゆえに「ゆるストイック」のような考え方も生まれてきて、他者には寛容となって「他人は他人、自分は自分」という態度で、周囲を気にせず淡々とストイックたれ、という言説も生まれてくるわけです。

ーーー

で、「ストイック派」も「ありのまま派」も両者ともに、どちらも正しいことを言っているはず。だからこそ、ずっと平行線をたどってしまうわけですからね。

だとすれば、僕たちが探るべきは「第3の道」だと思うのです。

つまり、マッチョなストイックでもなく、ありのままの自堕落でもない、その両者の弁証法。

それは、人間自らの弱さを受け入れたうえで、それでも立ち上がり、更に共に手を取り前に進んでいく姿勢であって、それこそが真の「勇気」だと僕は思います。

ーーー

たとえば、これは「人見知り」なんかを例にすると、とてもわかりやすいかと思います。

「私、人見知りなんです」と予防線を張ろうとする若い人は非常に多い。

これは、僕たちが対人関係対して、不安や恐れを感じるからこそ起きる現象だと思います。特に現代は、初対面だと相手が一体どんな人かわからない。

服装や見た目も当てにならない。またマスメディアが崩壊して、共通の話題さえも存在しない。

だから、ますます相手とのコミュニケーションが怖くなる。

その不安と恐れに足がすくんだ結果、「私、人見知りなんです」と先回りして相手に伝えてしまいたくなるわけですよね。

で、そんなときに、マッチョなストイックな人は、言うのです。「甘えてんじゃねえよ!」と。

「社会人だったら、ちゃんと相手とコミュニケーションが取れて一人前だろうが!」と。

そして、それはどちらも圧倒的に正しい。

でも、そうやって北風的に言われれば言われるほど、人はますます自らの殻に閉じこもり、やがて外にも出られなくなる。

「だって仕方ないじゃないか」と、エヴァンゲリオンのシンジ君みたいに、内へ内へとこもってしまう。

ーーー

で、ここでもやっぱり、第3の道が必要だと思います。

たとえば、以前僕が人づてで聞いた「人見知り」の対処法が、とっても素晴らしいなあと思いました。

それがどのような内容だったのかと言えば、「私は人見知りですが、あなたに敬意を抱いています。だから、あなたと仲良くなりたい。不器用でも一生懸命、あなたの話に耳を傾けたいと思っています」と先に宣言するのだと。

ーーー

これは本当に、素晴らしい心がけだなあと思った。

「人見知りではない」と偽るわけでもなく、それでもその弱さに甘んじるわけでもなく、相手に頼りっきりになってしまうのでもなく、自ら前に歩み出そうとする、その姿勢。
 
相手との関係性を自ら進んで、より良くしようとする強い意志や態度が、そこに備わっているわけですよね。

そしてきっと、これを言われて嫌な人なんていない。

だって、ものすごく敬意があるなあと思えるし、自分との関係性を良くしたいということは、はっきりと伝えてくれているわけなのだから。そこに敵意なんてまったくないわけです。

ーーー

そもそも、初対面の相手に人見知りを決め込まれてしまうと何が厄介かって、コミュニケーションが途端に面倒くさくなるからですよね。

自分ばかりが、場を盛り上げなければいけないような気持ちになる。

でもこうやって、その目的や意志をはっきりと伝えてくれれば、「不器用でも全く問題ないですし、一緒に関係性を育んでいきましょう」と自然と思えるはずなんです。

だって、両者ともに同じ時代を生きて、お互いに似たような恐怖や不安を抱えているのだから。

だとすれば、弱さを隠し合うより、素直に自己開示しあったほうが、そして、それでもお互いに歩み寄ろうとするほうが、よっぽど良い関係性を築けるのは間違いない。

ーーー

もちろん、それでもストイック派の「やせ我慢することこそが、プロなんだ!」という視点もとても持つこともよく理解できます。  

でも、それは、相当特殊な、一部のプロフェッショナルの話だと思うのです。

それを一般化し「誰もがそうあるべき」と説くのはかなり酷だと思います。というか、酷だからこそ、ストイックな姿勢というのは一般化しない。

だとすれば、自分が「努力の賜物」として獲得できたのだからという理由で、相手に同じやせ我慢を求めてしまうのは、違う。

そもそも強制された「やせ我慢」は、経済成長しているタイミングなどは良いけれど、なかなか結果が出ずに、それでも働き続けて身体が悲鳴を上げた瞬間に、一瞬にして崩壊する。

その結果、気づけば鬱なんかにも陥ってしまうわけです。

ーーー

さて今日の話をまとめてみると、いま僕たちが向き合うべきは、自己提示と自己開示、その弁証法だと思うのです。

SNSで「どれだけ自らが努力し、その結果として優れているか」、そんなストイックな姿勢を誇示し合う時代がありました。でも、それがただの虚勢にすぎないことは、誰もが理解し始めたわけです。

その反動で「ありのまま」がもてはやされたけれど、そこにも決して未来はない。みんなが自堕落に陥って、ルサンチマンに溢れた論破合戦が始まり、それはそれで泥沼にハマっていく。

何も目の前の物語は発展していかない。「より良い」ものが発見されないわけですよね。

ーーー

で、繰り返しますが、僕は決してケア派ではなく、「あなたは、あなたのままでいい」とは言いたいわけじゃない。

そうじゃなくて、そのあり方に強く共感を示しつつも、一緒に立ち上がってみませんか、と手を差し出したい。

弱さを弱さと認めたうえで、淡々とやってみる。それは案外、楽しいですよ、というふうに。

最初は不純な動機でもいいと思います。そこから徹底して道を歩む「求道的な状態」に連れていきたい。

劣等コンプレックスから生まれた「したたかな下心」すらも肯定をして、それを前に歩みだす運動エネルギーへと転用し、自然と淡々と没頭状態へと差し向けたい。

そのような真の意味でのストイックを、共に楽しむことを推奨していきたい。それが僕の理想です。

ーーー

そして、こんなふうに、ある地点からある地点まで、誰かをそっと導くこと、それが「メンター」の本質。

だとしたら、僕は「個人」として、誰かのメンターになるのではなく、もっともっとフラットで対等な「メンター的な空間」や場所をつくり出したいなと思っています。

それは、中心にある焚き火のようなもの。つまり、真ん中にお互いの敬意や親切心があって、それをグルっと円で囲むようにして、みんなが背中でその「焚き火」の温もりを感じながら、それぞれの身体が向いている外側へと、それぞれに一歩を踏み出していく、そんな場をつくりたい。

なんだか結局はいつも同じような結論になってしまいましたが、ストイックについてここしばらく考えてきて、そんなことをいま強く思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとって、今日のお話が、何かしらの参考になっていたら、嬉しいです。