他者にかかった何かしらの呪いを見るとき、僕たちはついつい相手のことを「なんとかしてあげたい」と思ってしまいます。

けれど、その衝動の中には、単なる善意だけではないものが必ず混じっている。

たとえば、「目の前で苦しんでいる人を見たくない自分がいる」とか「自分の無力さに耐えられない自分がいる」とか「他者の呪いが何かしらの形で変容し、自分にも及んでくるかもしれないという恐れ」などです。

そんな自己保身的な態度や動機が、知らず知らずのうちに入り込んでしまうからこそ「早く相手の呪いを解かなきゃ…!」と焦ってしまうわけですよね。

特に、家族や仲の良い友人など、相手との距離が近い場合は自然とそうなりやすい。

でも本当は、その焦りこそが、すでに相手の回復プロセスそれ自体を完全に無視する暴力のようなものなのかもしれません。

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で、最近僕がよく思うのは、相手の呪いに対して、何か具体的なアクションを起こすのではなく、ただ待つことが大事で、それが一番むずかしいことだなと思います。

言葉にすれば「待つ」であって、たったそれだけなんですが、けれど実際にはとても過酷な行為だなあと思います。

なぜなら、相手が一向に変わらないかもしれない不安を抱えたり、それでも関わり続けたりすることで、自分までもがまた別の呪いに蝕まれてしまう恐れがあるから。

もしくは、その様子を周囲から眺められたときに「なぜそんな人を待ち続けるのか」と無責任な言葉がいくつも飛んできて、その中でひどく孤独を感じてしまう。

それらすべてを引き受けながら、「この人は変わるかもしれない。いや、変わらないかもしれない」その両方を抱えたまま、待ち続けるということは本当に辛い。

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この点、逆に具体的に何か「行動すること」は、わかりやすい達成感を僕らに与えてくれます。 

でも、「待つ」という行為は「能動的な不作為」をその都度、その都度、選び続けるということです。

つまり、何もしないという「待つ」の選択や決断は、1回限りだと思いきや、実は意志をもって、何度も何度も選び続けることを指しているわけですよね。

具体的には、余計な一言は決して言わない。一方で、決して無視したり見捨てたりはしない。けれど、過剰に期待しすぎたりもしない。

それを全部覚悟して一瞬一瞬、意識的に引き受けていく行為なんだろうなあと思います。

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そうすることで結果的に、相手自身が自分の呪いに向き合うための「余白」がそこに生まれてくる。

つまり、「能動的な不作為」とは、相手との間に立ちあらわれる「余白」それ自体を信じる行為なのだと思います。

そして、それは人間だけにしかできないこと。

人間という顔のある特殊な「器」的存在だからこそ、相手との間においてうまれてくる余白がそこにある。AIとは明らかに異なり、身体性や有限性ゆえに、内在している価値ゆえの成果物だなと思います。

まさに、ひととひととの”あいだ”に立ち上がってくるものが、そんな余白なんでしょうね。

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で、これは少し余談ではあるのですが、最近僕がよく思うのは、AI時代は「何を目一杯抱きしめてきたのか」のほうが、きっと大きな価値が生まれてくると思うのです。

AIの登場によって生産性が一気に急上昇していて「あれも、これも」と、それこそ大道芸人のお手玉のように、いくらでも具体的な行動は誰でも可能となる。

そして多動症傾向にあるひとほど、そういう物に闇雲に手を出していく。

でもそれは遅かれ早かれ、完全にAIに置き換わる。そうだとすれば、人間の役割は何を目一杯抱きしめてきたのかが、重要になると思うのです。

実際に、もし自分が何かを相手に真剣に頼みたいとき、どちらのひとに頼みたいのか。

そして、このときの「抱きしめる」という比喩それ自体が、待つという態度そのものだなあと思います。

そして、それは決して執着ではない。ただただ、待つ。『スプートニクの恋人』の中に出てくる「注意深く耳を澄ます」みたいな話なんかにも、とてもよく似ているはずです。


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さて、ここまで読んだ方の中では、「でも、どれだけ待ったとしても、その呪いは一生解けないかもしれない」と不安になる方もいるかもしれません。

それは、本当にそうなんです。呪いが解ける保証なんてどこにもない。でも、それでもいいと思っています。

なぜなら、「待つ」という行為は、相手のためだけでなく、自分自身への誓いみたいなものだからです。

「誰かを信じて待ち続けた」というその事実。

たとえ呪いが解けなかったとしても、自分の中に静かで誇らしい確かさを残してくれるはず。結果ではなく、過程そのものが、自分や他者への贈り物になるはずなんですよね。

逆に言えば、相手の決断は本当に相手次第。「馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない」のあの話と一緒です。

言い換えると、結果によって、自分の労力が報われるかどうかが、決まるわけではない。

待つという態度を選べているその時点で、それはもうすでに結果が出ているとも言えるわけですよね。

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ここでひとつ、とても大切なことを確認しておきたいのですが、それは、「待つこと」と「自己犠牲」は違うということなんです。

「待つ」とは、自分の尊厳を守りながら、相手の自由も尊重することだから。

自分自身を壊してしまったら、結局、相手にとっても良い存在ではいられない。だからこそ、自分を守ることもまた「待つ」の一部であることは間違いない。

では、具体的には、どうやって自分を守ればいいのか。

重要なのは、「関係性を、ゼロかイチかで考えない」という感覚なんだろうなあと思っています。

完全に切り捨てるでもなく、完全に一体化するでもなく、ほどよい「間(ま)」を保ちながら関わり続けること。

それが、待つための現実的かつ持続可能な態度なのだと思います。

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ここで思い出すのは、以前もご紹介した河合隼雄さんの新興宗教にハマってしまった方への対峙の仕方のお話です。


相手が新興宗教やスピ系にハマってしまったとき、河合隼雄さんは決して無理に引き留めようとしない。

「じゃあそっちに行ってください。それでも帰りたくなったら、私のところに帰ってきてください」と同時に伝えておくのだと、ご著書の中に書かれていました。

うまくいえないけれど、僕はここを読んで、これが本当の「優しさ」だなあと思ったんですよね。

無理やり止めようともせず、帰ってこられる余白をつくって待ち続ける。

人間関係において、完全に縁を切ってしまって相手を孤立させてしまうわけでもなく、相手の主体性を完全に奪って「そんなバカなことはやめろ!」と無理やり説得するわけでもない。

この「間」が本当にとても重要なスタンスであり、心がけなんだと感じました。

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ここまで来ると、もはや「待つ」という行為は、ほとんど「祈り」に近いものになっていきます。

それは「この世界には、人間が自力ではどうにもできない時間がある」という謙虚な認識なんかにも見事に紐づいてくる。

だとすれば、そんな「時間」を信じて「つながり続ける、耕し続ける」ということなのだと思います。

そして、たとえ相手が変わらなかったとしても、自分の中には「相手を信じる私を信じて、私は待ち続けた」という確かな痕跡が残る。

それは、目に見える成果以上に、静かで、けれど着実に、自己や他者を励ますものになると思います。

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もちろん、それでも、長時間が経過して、何も発展がなく呪いが解けなかったとき、なんなら、さらに呪いが深まってしまった場合において、僕達は強烈な耐えきれないほどの痛みを感じてしまいます。

「こんなに待ったのに」という無力感や「何もできなかった」という敗北感を感じる。

そして大切なあの人を救えなかったという後悔だけが残る。

結果だけを見れば、何ひとつ報われなかったように思える。でも、その報われなさの中にこそ、静かな「成熟」のようなものが、積み重なっているのだと思います。

ここまで来ると、もはや悪あがきのようにも聞こえてしまうかもしれないけれど、でも本当に強くそう思います。

過去の様々な僕自身の体験を通してみても、本当に強くそう思います。だから決して、僕は待つということを諦めたくないなと思ってしまいます。

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本当に誰かを信じる姿勢とは「裏切られるかもしれない」というリスクを丸ごと引き受けることです。

「絶対に裏切らない人だけを信じる」というのは、実は信じていない。条件付きの信用にすぎない。

でも一方で、「この人が裏切るかもしれない。それでも、私はこの瞬間、この人を信じる」この覚悟こそが、本当の信頼だと思うんですよね。

だからこそ、大事なことは坂ノ途中・小野さんもよくおっしゃっているように「この人に裏切られるなら、何かしらの理由があったんだろうな。しゃあない」と思えるぐらいに、信頼できる相手との関係性を日々しっかりと耕せているかどうか、なんだろうなあと。

この小野さんのお話は、ものすごく現実的で、尚且つ、あたたかくて優しい生存戦略だなあと思っています。生涯決して、忘れたくない言葉のひとつです。

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そして、その生き方を選び続けているひとは、たとえどんな結果になったとしても、自分自身を裏切ることなく、生きていくことができる。

それこそが、呪いが解けるのを「待つ」という行為の、最大の効果効能なのかもしれません。

AIの圧倒的な進化で、お手玉のようにくるくると具体的なアクションができるようになってきた時代だからこそ、人間関係においては、ただ黙ってじっと注意深く耳を澄ませる、そうやって待ち続けられる人間でありたい。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のこのお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。