先日、AIの第一人者でもある東京大学・松尾豊教授の出演している動画を観ていたら、思わず「なるほど!」と膝を打つようなお話が語られていました。

それがどんな話だったのかと言えば、松尾先生いわく、AI の性能を最大化しようとするとき、「内部では差別的な推論をしているのに、出力ではそれを一切表に出さない」という状態が、実は最も高いパフォーマンスを生むというのです。

言い換えると、そもそも差別的な思考を一切しないAIを目指して、学習データやパラメータを徹底的に浄化してしまうと、AIの精度自体がガクッと落ちるのだ、と。

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この話を聞いていて、僕はなんだか人間とまったく一緒だなあと思いました。

以前このブログで「私は相手からまだまだ多くのことを学べるという姿勢こそ最大の敬意だ」と書いたことがありますが、あの文章の裏側というか前提には「それでも人は、瞬時に相手を値踏みしてしまう、どうしようもない存在だ」という諦めというか諦観が横たわっているはずです。


そして僕は、残念ながらそんな腹黒さを持ってしまうのが、人間だと思います。

つまり、僕らは“腹の底”では好き放題に他者のことを評価し、嫉妬し、軽蔑し、ときに差別すらしてしまう存在なわけですよね。

けれども、社会的にふるまうときには、その感覚とは一定の距離を取り、フタをして「敬意」や「配慮」や「親切心」、そして「礼儀」という包装紙で丁寧に包み直すわけですよね。

この本音と建前のような二重構造があるからこそ、人間社会はギリギリ崩壊せずに回っていることは、一つの現実として間違いない。

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で、この話というのは、最近僕が何度も繰り返し語っている「客観的な事実と、本人にとっての真実」の違いの話にもつながるし、根っこは同じ構造だと思っています。

人はそれぞれ、自分だけの真実(≒主観的世界)を抱えている。

それ自体は否定しがたくて、尊重すべきものではあるのだけれども、一方でその本人にとっての真実は、他者から見れば、毒性なんかも孕むわけです。

というか、基本的には毒性だらけで、かなり危ういもの。妄想や虚言癖の類いですからね。

でも、もし僕らが「そんな毒を完全に排除して、客観的なクリーンな世界をつくろう」と躍起になれば、結局は安全第一の無菌室のようなコミュニケーションしか残らなくなってしまう。

そこには、個人の身勝手な確信が持つような熱量も個性も、なくなってしまう。

まさに松尾先生が指摘した差別を排除したくて行った性能低下、その人間バージョンが起きてしまうわけです。

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で、ここで思い出すのが、先日ゲンロンカフェのイベントの中で哲学者・近内悠太さんが語っていたエピソードです。

近内さんはトークイベントの後半で「人間には、不潔で野蛮でウェットなものがあると皆わかっているからこそ、わざわざ会場に集まっている」と、会場を見回しながらとても愛情たっぷりに語っていて、僕はそれがものすごくいいお話だなあと思いながら聴いていました。

まさに“腹の底”にあるドロッとしたものをちゃんと認識し、それでもそれを疑わずに共有しようとする、そんな欲求全体を肯定する言葉だと思ったからです。

ところが、そのトークイベント自体は終盤で「ホモソーシャルすぎる」としてなのか何なのかはわかりませんが、今は自主規制的にアーカイブが取り下げになってしまっています。

それを観て、僕は「ああ、もったいない」と感じてしまったんですよね。「それがいいのに…!」と。

でも、ゲンロン公式チャンネルのレギュレーションには合わなかったという意味合いや、その建前としての振る舞いにも理解ができるし、その決断自体は100%正しいと思うから、むずかしい。

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Wasei Salonも結局、そんな“人間のウェットさ”を正面から語れる場が、現代のオープンな場では少ないと感じるから運営してい。

同時に、そこにこそ人間同士が対話する意味や価値があると思うから、わざわざこんな辺鄙なクローズドの空間(オシロの中)に集まってしまうのだろうなあと思います。

だったら、すべて曝け出して「腹黒くて、なんぼでしょ!」と開き直ればいいのかというと、それはそれで地獄が待っているわけで。

相手に対する敬意や、リップサービスも建前もない世界においては、相手の心が瞬時にズタズタになり傷ついてしまって、共同体は瞬く間に崩壊をする。

だからこそ僕らは「倫理」や「道徳」という自己制御装置のようなものを内面化し、「思うのは勝手。でも口には出さない」もしくは「相手が傷つかない言い回しに、きちんと変換する」というスキルを磨き続けてもいるわけですよね。

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また、この話は「善き物語」なんかにも通じると思っていて。

人はなぜ物語を通じて語り合うのかと言えば、物語を通じて、自分の腹黒い感情を一次的に「安全な物語(フィクション)空間」に流し込み、そこで言語化をして「これは事実ではない」という文脈のもとに、圧倒的な「真実」を他者に手渡すことができる。

村上春樹さんの「物語をつくるとは空中庭園をフワッと浮き上げること」という話も、これと似たような構造だと思います。

人間には、不潔で野蛮でウェットなものがあると皆わかっているからこそ、わざわざ物語を立ち上げる。

そしてそれを空中庭園のようにフワッと浮き上がらせることによって、それは僕らの人間社会の建前を超えて、取り扱い可能なものにする。


で、これが、AI が内部の差別的推論を「出力時のフィルタ」で包み隠す構造なんかとも、非常によく似ていると思います。

こう考えると、「物語」というのはそもそも、人間社会における“出力フィルタ”そのものなんだろうなあとも思います。

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さて、ここまで読み進めてくださった方々は、なんだか小難しい話をしているけれど「結局、それって良いことなの? 悪いことなの…?」と疑問を持ちながら読んでいるかもしれません。

それは正直に言えば、僕にもまったくわからない。

良いかもしれないし、悪いかもしれない。

でもただ一つ言えることは、AI でも人間でも、腹の底に差別や偏見が“ある”という事実を受け止めつつ、それを社会に流通させないためのフィルタリング機能を進化させ続けること。

人間であれば、表現方法を磨き続けること、その改善しようとする意志や営みが続く限り、僕らの共同体は、かろうじて持続可能なものになるのだと思います。

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これは、最近文庫版が発売されたばかりの村上春樹さんの最新作『街と、その不確かな壁』の最後のあとがき部分においても、似たようなことが書かれていました。

要するに、真実というのはひとつの定まった静止の中にではなく、不断の移行=移動する相の中にある。それが物語というものの神髄ではあるまいか。


だからこそ、物語や対話の場で、適切なかたちで毒を希釈し、循環させ、学びに変える仕組みを並行して、育み続ける必要があるのだろうなと思います。

そして、そのような場においては常に必ず「言い過ぎた or 言い足りなかった」という後悔や懺悔が否応なしに繰り返される。

逆に言えば、それが続いている限りは健全なんでしょうね。つまりそれが「問い続ける、不断の移行」だと思うのです。

もっとわかりやすく言えば、毒を毒として完全否定するのではなく、毒を毒として果敢に扱い続けること、それをあきらめない姿勢なんだろうなあと思います。

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結局のところ、僕らはいつもこの「人間くささ」と「社会的パフォーマンス」の間で綱渡りをしている状態なんだろうなあと思います。

松尾先生が語るように、完全なるクリーンネスを求めると性能は一気に落ちる。

でも今のオープンな社会では、その人間のクリーンネスの矯正が急速に進んでしまっているわけです。なぜなら、それこそが政治や資本主義、テクノ封建制に資する行為だからです。

でもそれだけでは、やっぱりダメなのだと思います。

他人にとって優しくて、完全に無害で、でも結局AIでいくらでも代替可能な”いいひと”を量産してしまうだけ。

むしろ僕らが本当に努めるべきは、その腹黒さの根絶するのではなく、自らの表現力を磨くほう。思い浮かべてしまったことをなかったことにする自粛的な態度では、決してないはずなんです。

京都文化が、生き残る理由なんかも、まさにここにある。京都の方言のなかには、最初からその表現力の豊かさが内包されているわけですよね。

でも多くの場合は、「悪口」を抱く視点や視座の方を、自ら率先して矯正してしまう。そして、良くも悪くも去勢された、”どうでもいい”人間のできあがり。

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最後に、何度も何度も繰り返し強調してしまうけれど、人間のそんな腹黒さ(不潔で野蛮でウェットなもの)を全面に押し出せば、社会はたちまち崩壊してしまう。

だからこそ、僕らはこれからも「人間とは本来どうしようもなく腹黒い生き物なのだ」という前提から出発をしつつ、それでも私にとっての「真実」を語ることをやめず、毒を毒のまま抱えながら、それを「物語」という装置で循環させていく必要がある。

そして、Wasei Salonのような場所が、そうした“毒の扱い方”を静かに試し合って、お互いに「成熟」することができるアジールになればと願っています。

みなさんと共に、その毒の部分と薬の部分を入り混ぜながら、“善き物語”を紡いでいきたい。きっと、そこにAI時代における次の倫理が宿るはずだと思うから、です。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。