最近、AIについて語る人たちのあいだで、よく聞く言葉があります。

それは「AI時代は、やりたいことが明確にある人のほうが強い」という話です。

これからは、目的意識のある人、欲望のある人、実現したいことがはっきりしている人が、AIを使ってどんどん前に進んでいく、と。

この話には、個人的にもかなり納得はしています。

実際、AIはただのツールであり、道具でしかない。

問いや課題意識、つくりたいものがない、もしくは曖昧な人にとっては、AIはただ便利そうなブラックボックスのままだし、逆に、やりたいことが明確な人にとっては、驚くほど推進力を上げてくれる非常に強力な道具になる。

そういう意味では、「やりたいことがある人が強い」というのは、たしかにその通りなのだと思います。

ーーー

でも最近、そんな話を聞くたびに、少しずつ別のことも考えるようになってきました。

それは、AI時代にほんとうに必要なことは、「AIを使ってやりたいことが無限にある」ことではなく、AIから「守りたい世界観」が、自分の中に明確にあることなのではないか、ということです。

これを自分の中で言葉にできた瞬間に、なんだかものすごく大切なことを授かったような天啓のような感覚がありました。

で、そんなことをモヤモヤと考えていたときに、ある投稿を見かけたんですよね。

いまのAIは口だけ達者で、おむつ一つ替えられないし、風呂にも入れられないし、ミルクも飲ませられないし、寝かしつけもできない、というような、半分皮肉で、半分本音そうな投稿だった。

これもまた、よくわかる。子育てをしていれば、実際その通りに感じるだろうなあと容易に想像がつきます。

どれだけAIが賢くなっても、少なくともいまの段階では、身体を使って誰かの世話をすることはできない。

ーーー

でも、その投稿を見ながら、僕は逆に考え込んでもしまった。

もし本当にフィジカルAIが来たら、一体どうするのだろう、と。

おむつ替えもできるし、寝かしつけもできる。家事も、見守りも、かなりの部分をAIを搭載したロボットが担えるようになる。

そうなったとき、人間という存在は、一体何をして生きて、何を拠り所にするのだろうかと。

ーーー

もちろん、その答えとしては、いくらでもきれいなことが言えると思うんです。

人間はもっと創造的なことをやればいい、とか。もっと自分のやりたいことに集中すればいい、とか。余った時間で自己実現すればいい、とか。

でも、僕はそこで、もう一段引っかかってしまう。

そもそも、その「やりたいこと」は、本当に自分のやりたいことなんだろうか、と。

AIを使えば、誰でもかなり優秀な経営者っぽく振る舞えるようになるかもしれない。

美容や整形、長年抱えてきたコンプレックスも、かなりの程度まで、修正できるようになることはもはや必定。(その時に執刀してくれるのはもはやロボットであり、ほぼコストかからずにできるはず)

性格だって、AIの助言を受けながら「感じのいい人」に近づいていけるかもしれない。

ーーー

つまりAIは、人間たちが長年抱えてきた「こうなりたい」を、かなりの精度で実現可能にしていく。

でも、そこで怖いのは、実現できることそれ自体ではない。その「こうなりたい」が、じつは他者の欲望を内面化したものにすぎないかもしれない、ということです。

もっと評価されたい。もっと有能に見られたい。もっと美しくなりたい。もっともっともっと…。

それ自体は自然な願いだと思う。誰だってそういう気持ちはある。僕にも、もちろんあります。

ただ、AIが危ういのは、その願いをこれまでにない速度でほんとうに叶えてしまうところにあるんだろうなあって。

しかもその希少価値はなくなっていく。つまり、いまは限定品だからみんなが追い求めていたけれど、そもそもそれもただの選択肢のひとつになるだけなんです。

ーーー

もちろん、最初のうちは、そこに大きな追い風が吹くことは間違いないと思います。

AIをうまく使える人は、まだ使えない人より先に行ける。

仕事でも、発信でも、見た目でも、振る舞いでも「うまく最適化した人」が勝つ場面はたくさんあるし、実際今はそんなボーナスタイムだらけですよね。

でも、その優位は永遠には続かないことも、もう明確なわけです。

みんなが同じようにAIを使い始め、「正解っぽい顔」や「正解っぽい言葉」に寄っていった先で、バブルは必ず弾けると思う。

そのときに一体何が残るのか。

そこを考えないまま、「AI時代は、やりたいことがある人が強い」だけを信じて突き進むのは、かなり危うい。

なぜなら、そのバブルが弾けたときに初めて、自分が必死で追いかけてきたものの多くが、「自分の欲望」ではなかったと気づくかもしれないからです。

ーーー

たしかに何かは間違いなく手に入ったのに、自分の中には「人間らしさ」はもうほとんど残っていなかった。そのとき人は、かなり深い絶望に触れるのだと思います。

そしてたぶん、そこまで行ってから気づくのでは、きっと遅いんです。

ここでようやく、冒頭に書いた話への違和感の正体が少し見えてくるだろうなあと感じています。

「AI時代は、やりたいことがある人が強い」という言い方は、たしかに正しい。でも、その論理をそのまま原理的に押し進めていくと、最後は「やりたいことを最短で実現する存在」がいちばん理想になる。

もっとAIと深く統合し、もっと早く判断し、もっとスムーズに生きられる方向へ向かう。

つまり、論理だけで言えば、AIとの融合、人間のサイボーグ化の方向へと進んでいくほうが合理的だ、という話になる。

でも、多くの人はそのどこかで、必ず立ち止まるはずです。

そこまでできるとしても、それではなんだか違う、って。

ーーー

では、その「違う」は一体何なのか。

僕はそれが、AI時代にいちばん大事な問いなんじゃないかと思う。

自分が何を失いたくないのか。たとえどれだけ劣等的な事柄であっても、何をAIから守り、何は絶対に明け渡したくないのか。どんな感覚や関係性だけは壊したくないのか。

その輪郭のほうが、ずっと大事なのだと思う。

そして最近、実際にAIを使っていて、その輪郭に触れるような感覚がある。

たとえば、AIに何かを頼んでいるあいだ、自分の手は少し空くわけですよね。

考える補助や整理や下調べの一部をAIが引き受けてくれているあいだ、自分の側には、ぽっかりと時間が生まれる。

そのとき僕は、仕事のもっと先へ先へと進むというより、むしろ暮らしの側のほうに、AIから追い返されているような感覚になることがある。

掃除をしたり、洗濯をしたり、積んであった本を実際に手に取らされたり。少し散歩に出かけてオーディオブックを聴いたり、トリートメントのように誰かとゆっくり話す時間につかったり、そんな時間が勝手に増えていく。

そういう、一見するとAI活用とは何の関係もなさそうな時間のほうへ、自分がドンドン戻されていく。

ーーー

AIを使っているのだから、もっと生産的に、もっと効率的に、もっと先へ進んでいきそうなものなのに、実際には逆に、生活のほうへ、日常のほうへ、身体のある時間のほうへ引き戻される。

でも、僕は最近そのちぐはぐさが、むしろ大事なのではないかと思っている。

というのも、AIが生み出してくれた時間を、さらに仕事で埋めることもできるはずなのに、そこであえて暮らしの側に戻っていくことのほうが、自分には合っている気がするからです。

これまで蔑ろにしてきた「暮らし」にこれまで以上に時間を使えるとき「ああ、これは単なる余白ではなくて、人間が人間でいるための時間なのかもしれない」と強く感じる。

あるいは、AIを使うことによって、逆にAIから「もっとあなたの暮らしを大切にしたほうがいい」と伝えられているような、ちょっと不思議な感覚さえあります。

ーーー

で、もしそうだとしたら、AIの価値は、ただ何かを速くしたり、何かを上手にしたりすることだけではない。

人間を、人間の暮らしへと送り返してくれることにもあるのかもしれない。

守りたい世界観とは、抽象的な理念ではなく、こういう各人の、そして共同体の「暮らしの時間」のほうなのではないかと割と本気で思います。

遅くて不器用でも、自分の身体で誰かに関わること。

本当は、そこにこそ、その人の思想や、そのひとらしさがが宿るのだと思う。

ーーー

AIで何をしたいかは、たしかに大事だし、それがある人は、これから強いことは間違いないです。

それは繰り返し、何度でもお伝えしたい。

でもそれを大前提としたうえで、僕はそれ以上に、AIから何を守りたいかが明確な人のほうが、ほんとうの意味でAIを使えるのではないかと思っています。

どこまでAIに任せるのか。どこからは、AIには任せないのか。何は加速してよくて、何はあえて明らかに劣っているのにも関わらず、プリミティブなまま残すのか。

その基準がないままでは、AIと新自由主義の一番のしもべに成りさがってしまう。

問われているのは、自分が守りたい世界(観)をちゃんと持っているかどうか。

その輪郭を持っている人だけが、AIをただの便利な道具としてではなく、自分の生まれ持った身体や生命、そして魂を壊さないかたちで、本当の意味でまっとうできるのだと思います。

そして、それは社会と共にドンドン揺らいでいく。社会の常識が変われば、自分の価値観だって変わるのは当然ですからね。

だからこそ、常に問い続ける必要がある事柄であり、一生答えの出ない問いなんだと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。