(今回は限定公開ブログになります。あまりにも正直に書きすぎて、本当に怒られそうなので)
今日の内容は、昨日の続きのような内容です。
Wasei Salonのタイムラインでは少し共有しましたが、先日、4月8日に国会議事堂前で行われていた反戦デモを、夜の散歩がてら少し眺めてきました。
正直な感想を言えば、かなり嫌だな、と思いました。
しかも、その嫌さ加減は、思想の違いから来るものではなく、もっと日常的で、生々しい拒絶感にも近かったです。
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もちろん、そこにいた人たち全員を、他責思考でクレーマー気質なひとたちと、ひとくくりにして否定したいわけではありません。
現場を見に行った僕が、そう感じた、というだけの話です。
けれども、少なくとも僕の目には、かなり強い違和感を覚える空気として映りました。
彼らが叫んでいること自体は、別に何もおかしくない。
戦争反対なんて、真正面から間違っていると言える人のほうが少ないはずです。少なくとも建前としては、多くの人がうなずくような話だと思う。(そして、多くの人が頷かざるを得ないから、彼らも全力で叫ぶことができている)
でも、実際に現場に行ってみて身体感覚で気づいたのは、正しいことを言っている人が、そのままお近づきになりたい人であるとは限らない、という衝撃の事実でした。
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むしろ現場で僕が最初に受け取ったのは、言っていることの正しさではなく、「あ、こういう感じの人たちは正直苦手だな…」という、かなり冷たい距離感のほう。
日常生活のなかで出会ったら、明らかに、やれやれと思ってしまいそうな人たちです。
あとは、そういう人に言いくるめられてしまいそうな、ものすごく純粋そうな人たちも多かった。こっちはこっちで、やれやれと思うタイプ。
明らかに他責思考で、クレーマー気質なひとたちというのは、たとえば、店員にしつこく食い下がるようなひとたちです。
自分は正しいのだから、相手が疲れようが空気が悪くなろうが押し切っていいと思っているような人。
そういうひとたちは、日常生活のなかで出会ったら、正直、できるだけ関わりたくないタイプの人々ですよね。
そして、なぜこういうデモの光景が大々的に報道されにくいのかも、なんとなくですがよくわかったような気がしたんです。
それは陰謀論みたいな話ではなく、もっと単純なことで、現代社会においては、そういうクレーマーや他責思考で思い込みが激しい人たちこそ、相手をしてはいけないんだという社会的コンセンサスができあがってきているからだと思います。
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たぶん僕は、あの場で、彼らを嫌う側の感覚も、かなりよく理解してしまったのだと思います。というか、普通にそちら側に立ってしまった。
そして、そのこと自体にものすごくハッとしました。
自分の中にも、共同体にとって扱いづらいものを、すぐに「感じの悪い異物」として処理したくなる反応が、きちんとあるのだとわかったからです。
ただ、それで全部終わってしまうのも絶対に違う、という感覚が消えなかった。
だからこそ、この話は非常にややこしい。
むしろ、あそこまで嫌悪感がはっきりしたからこそ、逆に見えてしまったことがあったなあと同時に思うのです。
それは「ああ、歴史の非常時にはいつだって最初に声をあげるのは、こういう人たちなのかもしれないんだろうなあ」ということです。
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これは、決して彼らを称賛したいという話ではありません。
「やっぱりデモをする人たちは尊い」と、ありがちな話として美しくまとめたいわけでもない。
それよりもむしろ、そんなふうに気持ちよく結論づけられる話ではまったくないんだということを、僕は今日ここでしっかりと書き残しておきたいなと思ったんです。
むしろ、その嫌悪感をごまかさないほうが、この話の本質に近づける気がしているがゆえにこそ、今こうやって一生懸命言葉にして書こうとしている。
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自分の中の嫌悪感だけを根拠にして、こういう人たちをまるごと「うるさい」「クレーマーっぽい」で切り捨ててしまう社会は、たぶん本当に世界の方向がおかしくなったときに、ものすごく弱いんだろうなとも思ったのです。
誰もデモをしない。誰も場の空気を壊さない。
誰も、共同体の和を乱してまで立ち止まらせようとしない。
その社会は、平時にはとてもうまく回るのかもしれない。まさにみんなが和気藹々と暮らせているような状態ですからね。
面倒な人が誰もいなくて、場の空気も悪くならないし、配慮ある人たちだけで穏やかに回っていくかもしれない。
でも、本当に世の中がまずい方向に時代が流れたとき、その感じのよさは、そのまま体制側への従順さに変わってしまうのではないか。
そんなことを、デモの様子を眺めながら、すごく強く実感したんですよね。
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で、きっと今回だけでなく、歴史の中のデモも、そうだったんだろうなとも思います。
いまを生きる僕らは、過去の反戦デモや社会運動を振り返ると、「あの人たちは正しいことを言っていた」と思うことができる。
だって、彼らが語った通りの世界になったんだから。
その歴史的な意義もすでに知っているし、あとから意味づけされた物語として見ることもできる。
でも、その当時、その場にいた人たちは、本当にいまの僕らが思うような「立派な市民」だったんだろうか。
たぶん、そんなに簡単な話ではなかったはずなんです。
きっと当時も、相当煙たがられていたはずです。
共同体に反する人たちだと思われていたはずだし、空気を悪くする人たちだと思われていたはずです。
「正しいことを言っているのかもしれないけれど、なんか嫌なんだよな」と思われて、そっと距離を置かれるようなタイプのひとたちだったんだろうなあと想像します。
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つまり、僕が今回の現場で感じたあの感覚は、たぶん現代人特有のものではなく、昔からずっと繰り返されてきたありふれた拒絶反応だったんだと思います。
ただ、そこでひとつ、妙に腑に落ちたこともありました。
本来なら、こういう気質は共同体のなかでかなり嫌われるということは、共同体の論理だけで考えれば、もっと早く排除されてもおかしくないような性格特性のはず。
ホモ・サピエンスがお互いに助け合って協力し、社会を築いて繁栄してきたことを考えると、もうとっくの昔に、そういう性格特性が淘汰されていてもおかしくない。
それなのに、こういう人たちはずっといなくならなかった。むしろ、時代が変わっても、場所が変わっても、何度でも不死鳥のように現れてくる。
そのことに、ものすごくハッとしました。
「ああ、そうか。こういう人たちは、良くも悪くも、歴史のある局面でずっと役に立ってきたのかもしれない」と。
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平時にはただの厄介者に見える、見えてしまう。
でも、本当に世界の方向がおかしくなったときには、そういう人たちこそがいちばん最初に警報を鳴らしてくれる存在になるわけです。
ある種のモンスタークレーマー的な気質ですら、時代と場所が変われば、社会のブレーキ役として機能してしまうことがある。
そのことが今回、衝撃的なくらい腑に落ちました。
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この点、先日、異質なものは、最初から学びや刺激として現れるのではなく、もっと厄介で、居心地の悪いものとして現れる、ということをブログに書きました。
そして本当に大事なのは、それをすぐ排除や断罪に変えないための作法や文化のほうなのだ、と。
今回、国会前で見た光景は、その話がもっと露骨で、もっと政治的なかたちで現れていたように感じました。
だからこそ、僕らは「正しいことを言っていた過去の人たち」を、かなりきれいなものとして見すぎているのかもしれないなと。
でも、リアルな現場というのは、そんなに見やすくもないし、気持ちよくもない。むしろ、かなり嫌なものなのかもしれない。
そして、そこがむずかしいところなのですが、共同体というのは基本的には、そういう「嫌な人」を静かに嫌い、無意識に排除しようとする。
日常生活においては、感じがいい人、配慮がある人、空気が読める人のほうが、一緒にいて楽しいし、過ごしやすいからです。僕だって、そういう人のほうが望ましいと考えるし、そういう話ばかりをここに書いてきた。
Wasei Salonのような場を考えるときだって、基本にあるのはいつだって敬意と配慮と親切心、そして礼儀と、デモにいそうなひとたちと真逆の行動指針を経ててきた。
そして、それはやっぱり大事だと今も変わらず思い続けています。
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ただ、その価値観だけで社会全体を見てしまうと、いざというときに「空気を壊してでも止める人」を、ただの「異物」として処理してしまうことにもなる。
共同体を気持ちよく維持する才能と、共同体が間違った方向に進むのを止める才能は、たぶん別物なんだと思います。
そして厄介なのは、前者を多く持つ人が、後者まで持っているとは限らないことです。
むしろ、日常では感じよく生きられる人ほど、非常時には空気を壊せず、そのまま流されてしまうこともある。
他責思考でクレーマー気質のひとたちを否定したいがために「デモ」自体までも否定してしまうことにだってなりかねない。
つまり、歴史の非常時に最初に声を上げる人は、日常においてはかなり感じが悪い、ということが普通にありうるといういことを僕は、今日ここで強く主張しておきたいのです。
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現実には、そういう「できれば関わりたくない人たち」が、時代のブレーキ役になってくれることがある。
そして、その彼ら彼女らの他責思考やクレームまでを全部、「うるさい」「気持ち悪い」で切り捨ててしまうと、社会は本当に危うくなってしまう。
先日の国会前で感じたのは、そのなんとも言えない歯切れの悪い、割り切れなさでした。
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正直、未だに好きにはなれない。かなり嫌だったし、変わらずに苦手です。
でも、彼ら、彼女らを冷笑して終わる社会は、たぶん本当にまずい局面で、最後まで体制に流されるのだと思う。
どんな性格特性のひとたちにも、ちゃんとお役目がある。常に敬意を持って、接していきたいなとあらためて強く思わされる体験でした。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
2026/04/10 12:37
他責思考とクレーマー気質が、世界を変える。
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