先日、佐々木俊尚さんがXで紹介していた、「東京がつまらない街になった」と言われる原因について、という記事を読みました。


再開発された街が、なぜどこか似たような顔になっていくのか。それは、地価が高く、投資額が大きく、失敗が許されない場所では、どうしても前例主義になりやすいから。

賃料も高いから、入れるテナントもすでに成功している大手や有名店に偏っていく。「そこにしかないもの」が生まれにくい構造がある、という指摘にはかなり納得感があります。

実際、渋谷や高輪ゲートウェイ、麻布台ヒルズのような場所を歩いていると、僕自身も強い違和感を覚えることがあります。

そういう風景を見ると、つい「大手デベロッパーのせいだ」とか「再開発が街をつまらなくした」と言いたくなる。実際、それはかなり当たっている部分もあるのだと思う。

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ただ、最近思うのは、そうやって大手デベロッパーを批判するだけでも違うんじゃないか、ということです。

僕たち消費者の側もまた、あんな「失敗しない場所」をかなり強く求めているのではないか。

むしろ、その需要があるからこそ、あのような風景が都会に生まれている側面もあるのではないか。そんなことを考えるようになりました。

この点、昔よりも、ひとつひとつの失敗のコストが高くなっているのだと思います。

お金もそうだし、時間もそう。体力や気力なんかもそう。

飲食店ひとつ選ぶにしても、できれば外したくない。知らない街の知らない店にふらっと入るより、駅ナカでもいいから、一定の品質が担保されている場所を選びたくなる。その気持ちは、すごくよくわかります。

これは、消費者の怠惰というより、むしろ防衛反応に近い感覚だと思うんです。

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とはいえ、だから消費者が悪い、と単純に言いたいわけでもない。

消費者もまた、そうならざるをえない社会のなかにいるわけですよね。余裕がなくなり、失敗の痛みが大きくなった社会のなかで、自然と「失敗しない選択」が好まれるようになっていく。そして自分の推し活に湯水のごとくお金を注ぎ込みたい。

それ自体は、ある意味では当然のことです。

でも、そのひとりひとりの当然の選択の積み重ねが、街を少しずつ均質にしてしまう。

ここに、いまの時代の難しさ、そのジレンマがある気がしています。

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しかもややこしいのは、均質化にもいくつか種類がある、ということです。

たとえば、六本木ヒルズのような森ビル的再開発には、たしかに権力勾配がある。

強い資本と、強い意志で、街を大きくつくり変えていく。自然発生的な雑多さというよりは、統合的に設計された都市空間です。その暴力性を嫌う気持ちはよくわかる。

でも一方で、ああいう場所には、建てて終わりではなく、長く手入れし続ける覚悟のようなものも感じます。20年経っても六本木ヒルズはまったく古びない。

それに対して、好意的に語られがちな小田急の下北沢まわりの再開発のように、もっとローカルっぽく、小商いっぽく、余白のある感じをまとった空間もあります。

こちらのほうが一見すると、やさしくて、多様性がありそうで、親しみやすい。大資本の論理から少し距離を取っているようにも見える。

でも僕は、最近はむしろあちらのほうに、別の種類の違和感を覚えることがあります。

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それは、ローカル感や雑多さそのものが、すでにひとつの商品になっている感じです。

未完成っぽさも、小商いも、「そういう雰囲気」として設計され、消費されている気がしてしまう。そうすると、その場所は一見多様に見えても、じつはかなりトレンド依存で、時間が経ったときに風格として残るかはあやしい。

テナントの明らかな安普請も、そこにさらに拍車をかけている。あまりにもチープに感じてしまう。最初から20年残す気はないでしょ、って思ってしまう。

言い換えるなら、森ビル型が「権力的で重い均質化」だとしたら、こちらは「やさしい顔をした均質化」です。前者は支配的だから批判しやすい。でも後者は、やさしく、多様で、ローカルに見えるぶん、かえって均質化に気づきにくい。

ここがほんとうにやっかいだと思います。

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さらに言えば、問題は「失敗しない場所」が選ばれることだけではないのかもしれない。

もっと根本的に、みんなが自分の興味のあるものにしかお金を落とさなくなっていること、それ自体が、街の多様性が痩せ細っていく原因なのではないか、と最近よく思います。

飲食が好きな人は飲食のことを深く知っていて、飲食だけにお金を使う。本が好きな人は、本だけに、服が好きな人は、服にお金を使う。

それぞれが自分の好きなジャンルを深く掘っていくこと自体は決して悪いことではない。むしろ、多様性のある社会とは、そういう自由が認められている社会のことでもあるはずです。

でも、ここにひとつ、見落とされがちな逆説があるなと。

みんながそれぞれの「界隈」のなかで、自分の興味のあるものにだけ深く推し活的に課金するようになると、自分の興味の外側にあるものには、ほとんどお金が落ちなくなる。

すると、結果的に街全体としては、採算の取りづらいもの、説明のしづらいもの、趣味的で局所的なものから順に、生き残れなくなっていく。

ひとりひとりは自由に、自分の好きなものを選んでいるだけなのに、その総和としては、街がだんだん失敗しないことを最優先する場所になっていく。

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つまり、多様性を認めた結果として、街の風景のほうはむしろ均質化していく。ここに気づいていない人が、いまあまりにも多い気がします。

街の多様性が失われていることを嘆くだけ。

チェーン店ばかりになった、どこも同じような店ばかりだ、と。

でもその一方で、自分は、なるべくコスパよく、タイパよく、ポイントを押さえた消費しかしない。同じ口で、無駄な消費はするな、と平気で語る。

もう、洋服なんて一切買わない。そうやって、自分の好きな界隈の、自分が間違いないと判断した場所やモノにしかお金を落とさないわけです。

多様性のある街は残っていてほしい。でも、その多様性を支えるための、非効率で、少し無駄に見える消費はしたくない。

結果だけは欲しいけれど、その条件は引き受けたくない。そんな態度になりやすい時代なのだと思います。

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で、ここまで考えて、いま振り返ってみると、昔の街には、もっと別の回路があったんだろうなあと思います。

ご近所付き合いとか、その付き合いで買うとか、知り合いだから顔を出すとか、別にそんなに興味があるわけじゃないけれど、とりあえず一回行ってみるとか。

いまの価値観からすると、面倒で、不自由で、ときに同調圧力にも見えるような、そんな思考回路です。

もちろん、そこにはハッキリと息苦しさもあったと思います。昭和的な人間関係の濃さや、横並びの空気を、そのまま肯定したいわけではない。

でも、その少し不自由で、少し面倒な関係の網の目こそが、自分の興味の外側にまでお金を流していたのも、また圧倒的な事実だったのではないかと思うんです。

本当はそんなに欲しくないものでも、付き合いで買う。自分の趣味ではない店にも、知り合いに誘われて行ってみる。それの良さがわからないなんて大人ではないと言われてしまうから、買う。

そういう、合理的ではない消費が、結果として街の雑多さや多様性を支えていたと思います。

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京都のような街を見ていると、そのことをいっそう強く感じます。

京都には、ご近所付き合いや土地ごとのたしなみ、暗黙の作法のようなものが、いまでも色濃く残っている。

外から見ると、ひどく閉鎖的に映るし、いけず文化のようなものも含めて、全国的には鼻につくものとして語られがちです。

実際、その息苦しさや排他性で傷つく人もいると思うし、それをそのまま礼賛したいわけではありません。

でも一方で、ああいう少し鬱陶しい濃さ、少し面倒な規範の蓄積が、街の連続性や個性を守ってきた面もたしかにあるはずです。

ご近所付き合いがあり、店にも家にも土地の歴史があり、何をどう振る舞うかについて、見えない基準がある。

その結果として、京都には他の街では代替しにくい街の風景が残る。

千年単位の歴史や独自の作法が、単なる観光資源ではなく、「この街はたしかに他とまったく違う」という感覚として生き続けている。

そして、だからこそ、あれだけのインバウンド観光客も惹きつけられるのだと思います。

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つまり、自由で開かれた消費が許される社会のほうが、自然に街の多様性が守られるとは限らない。

むしろ、ある種の不自由さや面倒さ、ローカルな規範の蓄積のほうが、長い目で見ると街の個性や厚みを守ることがある。

ここにもまた、現代的な逆説があるように思うのです。

だから僕は最近、街の多様性について考えるとき、単に「小さい店が多いほうがいい」とも、「大資本の再開発は悪だ」とも最近は言えなくなってきました。

むしろ問うべきなのは、その場所を時間をかけて残していく責任があるのかどうか。

その責任を支えるだけの消費の流れが、社会の側にまだ残っているのかどうか、なのだと思います。

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自分の興味の外側にあるものを支える回路や流れがなくなれば、街はどうしたって、万人にとって失敗しにくいものの集合に近づいていくことは必定です。

むしろ、自分の興味のないジャンルにも、少しだけ関心を向け合う感覚を持ち合うこと。

それは、浪費を肯定することではないし、不自由な時代に戻ろうという話でもない。ただ、あまりにも「無駄のない選択」ばかりを追い求めると、その先で失われる風景があったんだね、という気づきが、2026年の今の東京の現在地のような気がしています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。