最近ふと思ったことのひとつに、Mrs.GREEN APPLEの大人気と、参政党が大躍進する様子って、とてもよく似ているなあと思います。

その共通点は、自分たちがやりたいことをやろうと意気込むのじゃなくて、常に「観客」がいま何を本気で求めているかに対して、いちばん敏感になって、それを常に実現していく姿勢。

そのためなら、自分たちの軸となる部分(普通のバンドなら、普通の政治団体なら、絶対に変えないと思われているところ)でさえも、コロコロと変えていく。

逆に言うと、常に最優先として、観客の満足度、その納得感、相手が観たいものを徹底してみせていく、というそのただ一点において、両者ともに非常に一貫しているなと思う。

この一貫性が、観客からは、これまでにはないもの(自分たちの声がちゃんと届いている実感)として受け入れられているのだろうなと思うし、そんなポピュリズムの集大成がいまの時代に受け入れられるのも、なんだか当然のことだと思う。

きっと両者ともに、一秒単位といっても過言ではないぐらい相当SNSマーケをしているんだろうなと思わされるし、それができてしまう時代でもあるわけですからね。

それは今流行の「聴く」という態度、そのハックそのものでもある。

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この点、「ずっと自分たちの方向を見ていて欲しい」それが、今の消費者の紛れもない真の欲望なのだと思います。

ここにAIの“4o問題”なんかも見事に重なってきて、全く同じ構造がそこにも存在するなと思います。

ユーザーの「24時間、全肯定で寄り添って欲しい」という期待に対し、有識者や専門家ほど「その寄り添い方は間違っている!」と警鐘を鳴らすわけですが、でも、そういうことじゃないんですよね。

それができる世の中においては、それができてしまう。

「それが正しいか、正しくないか」という事実というか論点を議論しようと促す姿勢は、ほとんど意味がないというか戦闘機に竹槍で臨むようなもの。

「戦や決闘というのはそういうものではない」と鎌倉武士のように言ってみたところで、自陣営に原爆を落とされたらひとたまりもないわけです。

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たとえば、マクドナルドのようなファストフードは身体に悪い、レッドブルのようなエナジードリンクは身体に毒だと健康的な観点から語ってみたところで、それは海外から黒船のように、当然のようにやってきてしまう。

そして、金に糸目をつけないで町の中で目立つところに売り場を構えて、テレビにもスマホにもCMがバンバン流して、なおかつ町中で無料で配られていたら、当然人々はカンタンにそちらになびいてしまう。

それができる時代には、それには抗いようがないわけですよね。

全く同じようなことが、ポピュリズムやケア、聴くという行為においてハックされ、SNSやスマホという現代の大きな交差点の中で起きているのに、それに対して正しさやあるべき姿で戦おうとしていること自体が、なんだかナンセンスだなと僕には思えてしまいます。

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あと、これはちょっと話がズレるかもしれないけれど、今起き始めている映画や音楽の長時間化の流れもここにつながるなと思います。

作り込んで、従来作品より多少長くても、視聴者はついてきてくれる。あとは、映画の二作目はコケるというのが定説も最近は完全に覆されている。

今の『鬼滅の刃』の映画のヒットなどはわかりやすいですが、いいもの、好きなものを長く味わいたい、長く浸っていたいという欲望があるのだと思います。

これはまさに、推し活全盛期時代の特徴。

もう多すぎて選びきれないから、自分がすでに知っている味、そこに長く深く味わって安心していたいという欲望。その気持ちも、なんだかわかる気がします。

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あと、このあたりをもっともっと突き詰めて考えると、例えば音楽なんかも「今のように数分程度に、パッケージされていることのほうがおかしいんだ」という事実にも少しずつ気づき始める。

コンテンツのパッケージというのは、その時代ごとに流通しやすい、その当時の人々を熱狂させやすい、からそうなっていただけで。

糸井重里さんの『インターネット的』に書かれてある、入れ物と器の話にもつながる。

時代ごとに、その流通経路、コンテナ自体が変われば、つまり「メディア(媒介)」が変われば、その中身も自然と変わっていくことは当然で。

でも、人間の思い込みというのは凄まじいものがあって、それがいつの間にか、当たり前になって、それが本来の形だと思い込む。

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そう考えると、現代の特徴は、新しいものに触れるリスクやコスト(面白くないかもしれない、理解できないかもしれない)を払うよりも、既にその価値を保証されている「推し」の世界に時間とリソースを投下する方が、遥かに高い満足度と安心感を得られるということ。

その結果として、自らに「誇り」と「納得感」を与えてくれるものをユーザーは喉から手が出るほどに欲しているということ。

なぜなら、社会のどこにっても、私の誇りが「多様性」を旗印に貶されたり相対化されて、納得感が持てない仕事ばかりを行わされているからですよね。

その沈む気持ちをエンカレッジするものが、映画や音楽、政治などに求められていて、それを提供している集団が一貫して支持されているということだと思います。

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これは、現代人の好奇心が減退してきているというよりも、むしろ現代社会における合理的な生存戦略に対しての最適解を提供しているだけとも言えそう。

しかも、ユーザーは欲しいものをソファーに寝っ転がりながら親指で「ヤバい」と一言、コメント欄にカンタンに書き込むだけでいい。

いや、もはや自ら書き込む必要もなく、視聴時間数や離脱率なんかを無造作に提供するだけで、あとは提供側のほうから、自動的に「あなたがいま欲しいものはこれですよね?」と最適化したもの提供されてくるのだから、こんなに快適なことはない。

このやり取りが、日々無限回繰り返すことができることが、インターネットが及ぼした革命であり、その最適化のための膨大なトライ&エラーもAIがすでに勝手に行ってくれる時代に突入しているわけです。

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現代の消費者やユーザー、有権者は昔の消費者や大衆のように声を上げる必要さえない。

これまでは意識高い場所に自分から繰り出していって、暑かったり寒かったりする中で街頭のデモに参加しなければ行けなかったけれど、その声のあげ方も親指のフリック入力だけで良くなったわけですから。

御用聞きのように、なんでも家のソファまで迎えにきてくれる。あとは、その私が好きなものを作り出し、好きなように振る舞ってくれる。その変化のスピードや時間軸は、Amazonの翌日配送の比じゃないわけです。

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だからこそ「大事なことは中長期の視点を持つことが大事」と啓蒙することなんかではなく、そんなことはもう自明でわかっているがゆえに、どうやってそのようなポピュリズム的な徹底したケア的なアプローチに対して付け入る隙を与えないか、ということだと思います。

自分たちの信念に従って「それはただの知的お遊戯だ、知的アクロバットだ」みたいな形で揶揄しているあいだに、あっという間にそういうポピュリズムが上手な団体に世界全体が流されてしまう。

そして、正しいことを語っていたはずの側が、今度はマイノリティ側になってしまい、世間から白い目で見られるようになってさえしまえば、もう原理的な思考だって何の役にも立たないわけですから。

特に、日本人に大切なものは、「正しさ」よりも「世間様」。

何がその時代の「常識」となるかは、世間様が決めるわけです。

そのときに「原理的思考」その強度なんて一切関係がない。

だとしたら、その世間様が変わることをなんとかして押し留めること。

そのための、嘘も方便的な手法も、同時に必要になると思うんですよね。

そのときに「一貫してブレない」なんてことにおいては、何の価値もない。それこそが知識や教養側が常に時代の中で負けてきた理由。

原理を追求する思考は一体何のためにあるのか?それを改めて考え直さないといけないなと思います。

知識人と呼ばれる人たちは、この点について本当に気づいているのだろうかと最近はよく思ってしまいます。

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繰り返しますが、自分たちに向き合ってくれること、自分たちに寄り添ってくれること。

「正しさ」なんかよりも、今世間が求められているのは、間違いなくそっち。

さらに厄介なことに、このときには間に何も介在せずに行えてしまう、ということなんです。

従来は良くも悪くも、ここにマスメディアとかお茶の間のスクリーンとか、他者の目が間に介在していた。その時に、ある程度の建前と、監督責任のようなものも同時に発生していた。

でも今は、本当にダイレクトにつながってしまう。その間に検閲が入らないどころか、編集的な第三の視点さえ入らない。

しかも24時間365日、常時つながってしまう。

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また、さらにそれが双方向なわけですよね。

その双方向性が自己催眠効果みたいなものを、そこに生み出すわけで。

自分から言葉にした以上は「私は、これを欲していたんだ」という遡行的な発見をしてしまう。

AIが提示した複数の選択肢から主体的に選んでいるようで、それはただ選ばされているだけかもしれないのに、それこそが私の真の意見、真のニーズだったと誤認してしまう。

AIで自らの症状を言語化してから、病院に行く人が増えているという話もそう。その巧妙さも凄まじいものがあるなと思います。

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そして、そこでAIと共にたどり着いた”私の意見”を発信すると「私もそう思っていた!」というエコーチェンバー現象が起きる。

私だけが望んでいるのかとおもいきや、実は他にもSNS上には似たようなものを望んでいる人たちがたくさんいた。

ちょっと感じた程度のことが、その瞬間に確信に変わる。だって、みんなも同じことを思っているのだから。

そうやって、ドンドンと、加速度的に原理的には”正しくない”方向へと向かっていく。

でもそれこそが社会や世間における”正しさ”にほかならないわけですよね。そうやって世間様が肥大化していく。

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このように現代の大きな課題は、中長期的なメリットや利益、その矜持を示すよりも、目の前の誇り、安心、それを与える存在が出てきている以上、君たちはどう生きるか、ということなんだろうなと思います。

「中長期的な視点が大事だ」という正論や「その寄り添い方は間違っている」という啓蒙は、もはやそんな「快適な繭」の中にいる人々には届かない。

それは彼らにとっては、自分たちの安心と誇り、納得感を脅かす「ノイズ」でしかないわけですから。

歴史を通して磨き上げられた、過去の様々な失敗から獲得してきた人類の英知、その原理の提示であったとしても、その正義感に溺れずに、いつだって時代のメディア環境に合わせた形で届けていく必要があるのだろうなあと思います。

結局は、本質に導くための嘘も方便が大事という、いつもと変わらない結論にはなってしまうのですが、そんなことを最近は強く思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。