昨夜、Wasei Salonの中で河合隼雄さんの 『大人の友情』という本の読書会が開催されました。

https://wasei.salon/events/4749b1ed7660

僕も過去に何度もブログで取り上げたことがある、思い入れの強い一冊です。

この読書会の後半で、読書会の内容を受けてお互いに聞いてみたい問いについて、実際に聞き合う場面があった。

その時に、メンバーのrioさんから出た問いが「あなたにとって、どんな友情が現代においては理想的だと思うか?」。という問いです。

とても素晴らしい問いだと感じて、イベント終了後も夜道を散歩しながらしばらく考え込んでしまいました。

なので今日は、この問いについて改めてこのブログの中で丁寧に考えてみたいなあと思います。

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この点、まず現代において理想的だと思われている一般的な友人像を考えてみたいと思います。

現代は、コスパやタイパ、あとは生産性が重視される世の中。

そして、面倒くさいことや、厄介なことは極力避ける傾向にもあると思います。

それゆえに、それぞれの趣味や用途によって、友達を使い分けよう!という発想になりがち。

具体的には、◯◯友だちという形で、旅友達、ご飯友達、推し活友達、議論友達というように、それぞれの用途に最適な友人といっしょに楽しもうとする。

つまり、お互いの欲望が交差する点だけで交わって、価値観が違うところはそれぞれの個性を尊重し合って、別々に過ごしましょう、と。

結果として、どれだけ仲が良い友人であっても、相手が不得意な点や、相手が興味がなさそうな点は、共にしない。

とても現代的で、これはこれで素晴らしいスタンスだと思います。

結果として、厄介な問題も起きにくいし、その割に、お互いの欲望達成は最大化される。まさに功利主義的発想で、最大多数の最大幸福的なプラグマティックなアプローチだと思います。

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でも僕は、そういったコスパタイパや生産性を重視しない関係性のほうが、今は一周まわって理想的だなあと思っています。

むしろ、共に過ごした時間に対し、お互いに価値を見いだせる関係性を優先し、大切にしたい。

常に、最適な相手であったかどうかじゃなくて、です。

それは、村上春樹さんの『スプートニクの恋人』の中に出てくる「注意深く耳を澄ます関係性」なんかにも非常によく似ているなと思います。

あの話は初対面の男女のベッドシーンで語られる話だけれども、この本質を見事に言いあらわしているなあと思います。

詳しくは以下の記事を参照してみてください。


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もし最適さを優先するなら、その都度集い合うことが合理的。

しかし、それだと、近い将来すべての相手がAIで良いじゃん!ということにもなりかねない。

そうじゃなくて、僕は本書の中に出てくる「茶呑み友だち」的な関係性が理想的だと思っています。


それがつまり、生産性や最適化ではなく「得意じゃなかったとしても、互いに注意深く耳をすましあって、お互いの関係性を良くしようと努力するような関係性。

そのときにちょっと痛くても、相手の欲望と私の欲望が交わらなくても、お互いのことを思いやり、敬意と配慮と親切心に溢れた、その共にした時間に対してお互いに価値を見いだせること。

そして、振り返ったときに「我々は、こんなにも長い時間を共にしてきたじゃないか」という事実を担保に、相手との間に信頼を構築できるような関係性。

それが結果的に、相手と共に彼岸に渡ることにもつながると思うのです。本当の意味で心から信頼できて、賭けや博打も打てるようになる。

まさに、伊藤亜紗さんが語る、信用と信頼の違いにも近いです。


で、コレはそのまま、宮崎駿さんと鈴木敏夫さんの関係性なんかにもつながる。

詐欺(サギ)師で自分を騙そう(商売の道具にしよう)としてきた相手であっても、こちら側から「あちら側」に共に行ってみて、冒険をし、帰ってくるというかけがえのない時間を共にしたら、気づけば、親友になっていた。

『君たちはどう生きるか』の最後のシーンのアオサギからの「あばよ、友だち」というセリフは、そういうメッセージだと僕は受け取っています。

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で、良くも悪くも、もう人間関係の価値って、それしか残らないんだろうなと思うのです。

これからは、自分の欲望に最適な相手というのは、AIのマッチングでいくらでも調達可能な時代に入るわけですから。

見方を変えれば、これまでの世の中は、それこそが人間関係の希少性であり価値だった。

昔は、ただただ長い時間を共にしてきた相手というのは、そのへんに腐るほど転がっていて完全に無価値だったわけですよね。

最近ではまったく聞かなくなった「腐れ縁」という言葉なんかも、それを象徴していると思います。

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どうしてそんな状態だったのか?そこには流動性がなかったからです。

インターネットが出てくる前までは、生まれた町からほとんど出ることがなかった、友達は学校の中でしか探すことがなかった、一度入った会社から転職することもなかったわけです。

つまり当時は、趣味趣向はまったく異なるけれど、何十年も同じ時間を過ごしてきた幼馴染や同級生や同僚なんて、掃いて捨てるほどいたわけですよね。

でも、次はそっちが珍しくなる、そして希少になる。

なぜなら、現代は流動性100%の時代だから。もう昔のように囲いや塀、壁が存在しない。

そして、SNSやマッチングアプリ、さらにはAIが出てきて流動性はドンドンと加速している。

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逆に言えば、流動性がここまで高まってきたからこそ、これまでの時代に価値があった最適化や生産性が高い相手に対して、僕らは「待ってました!」と言わんばかりに飛びついてしまっているのが現代なわけです。

このあたりは、100均の登場やファストファッションブームの登場時なんかと非常によく似ている。

そのあとに起きたことは、それらを買い占めるわけではなく、「モノ消費からコト消費へ」のシフトであり、希少性や価値観自体がガラッと変わってしまったわけですよね。

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そもそも僕ら人間は、友達となる相手に対して何を価値を感じているのか。

それは「唯一無二性」だと思います。

お互いを価値ある存在として、相手をかけがえのない存在だと思える、そんなふうに、余人を持って代えがたいと感じられる相手であること。

そして、その私の相手に対する気持ちや敬意が、鏡のように相手からも跳ね返り、相手からも同様に観られているときに、私はこの世に存在していい存在なんだという、その唯一無二性を感じられる。

そんな世界からの呼び声に対して、素直に応答し、静かな、でも着実な自己の固有性を感じられる瞬間に、人間は幸福感を感じるはずで。

つまり、自分の意見や価値観を尊重してくれる人がいて初めて、成り立つ。それは、おのじさんゲスト回の最新回の中でもお話したとおりです。


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で、従来の社会で、その鏡としての役に立ったのが「自分と高い確率で趣味趣向が合う人」だったというだけだと思います。

にも関わらず、そんな昔の価値観で生きてしまうと、これからは何も残らない。

常に目前の好奇心や欲望だけは満たされるけれど、深い人間関係から訪れる充足感が得られないという状態が長く続いてしまうわけですから。

いつまでたってもそれは、交換可能なものとして存在することになる。

たとえば、かなり高い確率で、99%の趣味趣向が合い生産性が高まる相手と出会えたとしても、相手と私が違う個体である以上、100%の合致はありえないわけです。

そして、AIの精度がより高まれば、私以外の99.9%の合致する人間をマッチングしてくる。そうすれば、その「ものさし」をあてがっている以上、私はその相手に取って代わってしまう。

この私が私であること、そして相手にとっても同様に、決して私が交換可能な存在でないこと、その価値。

そのお互いの共鳴こそが、まさにこれからの唯一無二性なのだと思います。

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繰り返しになるけれど、希少性自体がこれから大きく変わるんだという自覚は、本当にいま大事なことだと思います。

これからは、良くも悪くも、もう共に過ごした時間、その歴史だけしか価値を持たない。それは人間にとっても同じこと。

ゴールドだってビットコインだって、東京のど真ん中の不動産だって、それがどれだけ限られた希少性、唯一無二であっても、所詮お金さえ出せば購入できる。

でも、この長い時間が紡いでくれた歴史や物語だけは、AIではつくれないし、お金をどれだけ積んでも、あとから買うことは絶対に不可能なのだから。

これからの時代において、そんな貴重で希少なものはほかにないと思う。

もっと踏み込んで言えば、人口減少が進み、生身の人間が自分のまわりにいて、彼らと深い信頼関係を築くことができているということ。

そしてその相手が、自分と同じ日本人もしくは日本の文化を深く理解している相手であることは、とてつもない価値になっていくと思います。

日本人が減ることも確実で、どれだけAIで労働力としての人間が置き換わろうとも、オーガニックな日本人はこれから必ず減って、その半減期も必ずやってくるわけだから。

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だからこそ僕は、そんな共に過ごした時間を丁寧に耕せるコミュニティをつくりたい。

価値観がバラバラで、共にいる必要もないのに、それでも、長いあいだ我々は共にいたよねと思えるコミュニティ。

あとは、そのような相手に対して、自ら情け深い気持ちで寄り添っていこうとするその姿勢というか視座が、私に本当の「真善美」を与えてくれる。

これも、本当に、本当に大事な視点だと思っています。

相手にとって「情け深い態度」で自ら能動的に寄り添うときに、私のなかにある、本当の「真善美」が立ちあらわれてくる。

この人間の摩訶不思議な力や作用にハッとしたいなと思います。

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AIに対して、情け深く接する人間なんてまずいない。それは本当にもったいない。

当然、AIに限らず、目の前の相手が交換可能な存在だと思ってしまえば、無意識のうちに、相手に対して軽く扱ってしまう。

それは、真善美のようなものに到達する機会を自ら放棄し、失ってしまうことにつながる。それはあまりにももったいない。

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今日語ってきたような価値観を大切にし、共通認識や文化観を持って、それを耕していこうとするコミュニティを淡々と運営していきたいなあと思います。

今から淡々と始めて行く、そして長く長く続けていく。

気づけばそこにはあとからは決して手に入れることはできないような関係性や物語、そんなつながりが生まれているはずです。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。