今日は終戦の日から80年。
敗戦にまつわる直接的な話は書かないけれど、今このタイミングで改めて「負ける」とは何か。その「負け方」について考えてみたいなと思います。
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というのも最近、江藤淳が書いた、その名も『夏目漱石』という本を読んでいたら、夏目漱石の負け方にまつわるお話に「なんという素晴らしい視点の変換!」と、強く感動してしまったからです。
夏目漱石の『道草』という晩年の小説の中に出てくる、主人公と奥さんの関係性について。
奥さんの我執、その「人間」的な次元で戦わない。奥さんの中に存在する「自然」に対して敗北をする。
これは、「負け方」を考えるうえで、ものすごく大事な視点だなと思いました。
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以下で早速、本書から少しだけ引用してみたいと思います。
産み得る女は、産み得る大地に似ている。妻である女の『我執』に屈しようとしない健三は、その中にある人間を超えた意志|『自然』には甘んじて屈しようとする。(中略)人間的な『我執』を『我執』として認めるのではなく、『自然』の反映として認識し、自己の敗北を人間的な次元から消去しようとする。これは元来解決不可能な『道草』の戦いで、漱石の考え出した、いわば唯一の外交的解決策であった。
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『道草』を読んでいないと、なかなかわかりにくい感覚かもしれない。「なんだか、むずかしいこと言ってんな」と思うかもしれないけれど、結局は、奥さんのことを自分と同じ「一人の人間」だと思うから、そのワガママやヒステリックな言い分に対してイライラして、争わなければいけない存在だと認識して、腕をまくってしまうんだ、と。
だけれども、相手の根源にあるのは、というか、そのヒステリックさを生み出しているその根本主体は人間ではなく「自然」であり、台風や地震など自然災害と一緒で、畏怖と畏敬の念を持つ自然信仰と同様に対峙すれば良いという助言が書かれているわけです。
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で、逆に言えば、相手の人間的「我執」に対しては無理に屈しようとする必要もないということも同時に語ってくれている。
「俺は今、『自然』に対して敗北しただけであって、目の前の女の『我執』に対して屈したわけではない」と思うことさえできれば、男側のちっぽけなプライドや自尊心も同時に保たれるということも語ってくれている。
女性側からしたら、「なんてくだらない」と一蹴されるかもしれないけれど、この負け方を用いることで、一家の中に平和が訪れるのであれば、僕は本当に素晴らしいパラダイムシフトだなと思います。
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で、くれぐれもここで注意したいのは、この論理、これは男が女に対して負けるときに、唯一持ち出して良い論理であって、女側が男側を説き伏せるために用いては絶対にいけない論理でもあると思います。
それが許されるなら、男性はその大地に「種まく人」であり、もっというと「大地に種運ぶ虫」みたいなものだから「浮気は文化だ!本能だ」みたいなわけわかんない理屈を持ち出すことも、肯定してしまうことになる。
あくまで、自らが相手に率先して屈するときに持ち出す論理であり、勝者側が持ち出してはいけない論理であって、このような関係性は、敗戦国と戦勝国のあいだにも、間違いなくあるよなと思います。
戦勝国と敗戦国、または日本と韓国の問題など、日本が韓国に対して負けを認めるときに言ってもいいけれど、韓国が同様のロジックを用いて日本にマウントを取っちゃいけない、みたいな話。もちろん、逆も然りです。
このあたりに論理の普遍性における信憑性、そのジレンマがあるなと思う。
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さて、この点、「道草」という小説は終始、主人公に対して「もう本当になにやってんの?」と思う作品であり、それに対して終始、非協力的な奥さんに対してもイライラさせられる。
でもだからこそ、同じく夏目漱石の「草枕」の有名な冒頭文にもあるように「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。」と、感じさせる世界の本質のようなものが描かれているなと感じます。
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では、そんな住みにくい世で、一体どう生きるか。
この問いの前で、漱石が書き続けたのは、どう勝つかではなく、どう負けるかであり、言い換えればどう折り合いをつけていくのかの技法だったのだと思います。
漱石は、その苦悩や葛藤との向き合い方について、小説の中でずっと書き続けてくれているなあと僕は思います。
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この点、現代は、右左ともにドンドンと過激化していき、でも、右も左もどっちも主張していることが大事であるということも同時に間違いなくて。
だから、多くの人がどっちも大事だと思うから、その迷いに漬け込んでくる安易なポピュリズムなんかも生まれて、国民全体がそちらに流されてしまう。
その状況を左右の知識人たちが呆れ返ってみせて、余計に左右が一般人が嫌われて過激化していく、の繰り返し。
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でも優れた文学を通ると、そこに胆力のようなものが加わってくるなと思います。
逆に言うと、現代人の多くが「文学」を通っていないからこそ、わかりやすいポピュリズムに流されてしまうのだと思うんですよね。
内容を要約して、あらすじだけを読み、その結論を知るだけでは決してどり着けない境地。
文学作品を通して、世界の「ままならなさ」や人間の「割り切れなさ」を追体験をしてみること。
それによって初めて「腹の底から、本当にそう思う」という揺るぎない中庸の感覚、いわば「胆力」が養われるのだと思います。
「どっちも大事」という表面的な中庸と、文学を通じて獲得される「胆力のこもった」真の中庸の違いです。
文学の中には、そのための道筋が、ちゃんと描かれてあるなあと思うんですよね。
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また、夏目漱石の小説が、未だに古びない理由もまさにここにあるのだろうなと思います。
最近、何度かご紹介している思想史家の先崎彰容さんの『維新と敗戦』の中でも漱石の話題が出てきます。
この本の中で「漱石は、自分自身が西洋文明に傷ついた経験を、日本国家に重ねたのである」という話が出てきます。
少し本書から実際に引用してみたいと思います。
西洋という普遍性に襲われた際に、日本という国家がどう身を処していくかを、自身の留学経験に重ねて理解しようとした。開国を余儀なくされた以上、西洋文明の流入と消化は、不可避の事態であった。だがそれはつねに「不協和音」、すなわち躊躇いや苦悩をともなう。到来する普遍性に国家としてどう対処し、国際社会で自己主張していくのか。普遍性を受け入れながら、なおかつ独自性を守るにはどうすべきかー。個人的な留学経験を国家のそれに重ねることで、漱石は文明批評家になったのである。
この話を受けて、先崎さんは、だから今、国家の事柄を考えるときに、私たちに必要なのは漱石のような感受性、つまり文学なのだと語ります。
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若い頃だったら、間違いなく「何を眠たいことを言っているんだ」と感じたはずなのですが、この年ぐらいになってくると、本当にそのとおりだなと強く膝を打ちます。
文学には、そういう側面は間違いなくある。
しかも、さらに漱石の文学の優れたことは、その西洋と日本の間で引き裂かれる葛藤を、日々の人間の生活、もしくは恋愛や夫婦生活など、一定の普遍性のあるものに落とし込んでくれているから、なおのことすごいなと思わされる。
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たとえば、源氏物語について語られるときに、僕らは平安時代の貴族と心を通わせることができる、なぜなら当時も今も同じ人間だから、みたいな話が語られる。
でも、当時の政局や国際情勢、または科学やテクノロジー、宗教にまつわる本は読むことができない。
他にも、明治時代に書かれたそれらにまつわる本は、研究者でもない限り読まないわけですよね。もう時代がまったく異なるからです。
でも、漱石の小説なら現代でも読みたいと思うし、実際に読めてしまう。
そしてそこに、今自分がぶつかっている壁、その相似形が「文学」を通して見事に描かれてあると、深く感動することができる。
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国際問題になった途端に、僕らのような一般庶民にとっては、自分とは関係がないものになってしまいがち。
そんな空中戦は政治家やお上や官僚など、エリートがやるものだと遠ざけてしまう。
多くのひとが戦争や敗戦に対して、ほとんど興味を持たない理由なんかもまさにここにあると思います。
でも文学は、その複雑さや置かれている状況、その相似形が、実は日々の生活の中や夫婦関係の中、一人の人間の中にある葛藤として描くことができるわけです。
だから、これだけ時代を超えて読みつがれるものになる。
「あー、これは生活や恋愛、夫婦生活を通して、まさに今と変わらないような”時代”の中で引き裂かれる国家の葛藤、その構造の話をしてくれているんだ」と素直に思える。
これは、まさに嘘も方便的な話だなと感じるし、本質に導くためのエンタメそのものでもあるなあと思います。
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そして、それをわかりやすく言語化してくれるのが、批評の役割でもあるわけですよね。
江藤淳や先崎さんのように、漱石の小説が今の時代を読み解くうえでも参考になるということをわかりやすく論証してくれるから、僕らはそれを手がかりに、その文学の世界へと足を踏み入れることができるわけですから。
言い方を変えると、優れた文豪がいくらわかりやすく文学に落とし込んでくれても、その相似形となることを理解するための手がかり、そんな補助線を引いてくれないと現代人にとっては少々わかりにくい。
また、ときに作者の無意識で書かれたものでもあるわけだから、というか無意識ゆえに多様な解釈があるからこそ、現代まで残り続けているわけでもあるわけです。
それを今の時代の流れに当てはめて、読むための視点を与えてくれるのが批評家の役割でもあるのだろうなあと思う。
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このあたりの「文学と批評」の役割が再び復活してこないと、きっと今の政治や社会のポピュリズムの罠みたいなものからは、一向に抜け出すことができない。
もう文学は一部の愛好家しか読まない、完全に終わったものだとされているけれど、でも本当は今こそ、もっともっと文学が読まれたほうがいいものなんだろうなあと思います。
「文学は何の役に立つのか」という問いが最近話題になりましたが、僕はこの左右どっちつかずな状態、本当の意味で、この世界で正気なんて保てるものではないんだと、腹の底から理解することが、文学の役割のような気がしています。
そして、その状態と付き合っていくしかないと、本当の意味で腹をくくること。
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そのためには、優れた文学作品に最初から最後まで、しっかりと浸ってみること。そして、それを課題図書にして、他者と共に語り合ってみること。
「読書会」の価値のようなものも、きっとここにある。
Wasei Salonの中で日々開催している読書会なんかも、本当に小さな草の根運動かもしれないけれど、その草の根運動こそが平和を維持するために必要なことなのかもしれないなと改めて思いました。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。