コミュニティに参加しているメンバーの皆さんが「一体何を考えているのか、何が豊かだと感じているのか」それを聞くことがコミュニティ運営者の役割だなあと最近よく思います。
しかし、ただ「あなたの考えていることを私に教えてください」と言ってみても、それは勝手に語ってくれるものではない。
まずは呼び水のようなものが必要なんですよね。
その呼び水を生み出すことが、運営者の役割だと思っています。
それがきっと日々の発信ということなんですよね。ブログだったり、音声配信だったり、ありとあらゆる方法で発信し続けること。
そして、それに対して少しずつ反応をしてもらいながら、話を聞かせてもらうということが、とても大事な作業になってくる。
つまり、講演と質疑応答のような対比で言えば、コミュニティにおいては質疑応答のような関係性の方が、実はメインコンテンツだったりもする。その主従は逆であるということです。
これは、コミュニティを運営する上で、とても大事な視点だと思います。
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繰り返しますが、場を主催する人間、コミュニティ運営者に必要なことはまずメンバーの声を聞くことから。
でも、それは自ら話さなくていいわけではなくて、話すことによって引き出されるものがあるということを真に理解した上で、自ら話をして発信する必要がある。
本当の目的は、メンバーの内なる声を聞くために深い声を聞くためだ、ということを意識せよ、ということです。
それぞれの物語が始まるために、主催者が常に「聞く」ことであり、主催者が聞くためには、逆説的なんだけれども、毎日発信する必要もある。
それが、それぞれの物語が始まっていくことを目的とする場を運営する側のメインの役割だと思うというのが、今日の主題です。
これが読書会であれば、主催者の代わりに、最初から読書会の課題図書が代わりに話してくれているようなものであって、そのコンテキストが共有されているから、それぞれのうちに既に話すことも秘められていて、参加者それぞれに語ることもあるという状態が醸成される。
言い換えると、運営者の日々の発信というのは、読書会における課題図書みたいな呼び水の役割と言えば、より一層わかりやすくなるかもしれません。
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で、ここで少し話は逸れてしまうのですが、最近よく思うのは、時代には時代の倫理や道徳があるということです。
例えば、「クラファンは詐欺だ!」と10年前に言っていた人たちはみんな頭が悪い、みたいな話はよく聞くし、その言いたいことはよくわかるけれど、僕はそれって解像度が荒いというか、あまりよろしくない発言だなといつも思ってしまいます。
なぜなら、やっぱり当時は「クラファンは詐欺だ!オンラインサロンなんて詐欺だ!」というのは、当時の道徳や倫理からしたら、非常にまともな感覚であって、その認識の方が当時は正解だったから、です。
今はどれだけそれらが当たり前になっても、10年前の倫理や道徳における価値観の中では詐欺だと言われても、それは仕方ない。
ちなみに、道徳や倫理の定義がよくわからないという方のために、『「利他・ケア・傷」の倫理学』の本中で紹介されていた哲学者・池田晶子さんの定義がとてもわかりやすいかと思うので、孫引きみたいな形にはなってしまいますが、ここでご紹介しておきます。
道徳と倫理との違いとは、単純明快、強制と自由との違いである。「してはいけないからしない」、これは道徳であり、「したくないからしない」、これが倫理である。「罰せられるからしない」、これは道徳であり、「嫌だからしない」、これが倫理である。
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つまり、何が言いたいのかと言えば、その時代の人々の主観によって、道徳や倫理のような価値観というのは、ものすごく大きく左右される問題であるということなんです。
社会が何を「強制」してくるのか、自分自身が何を「自由」だと思うのかは、その時代の流れだったり、時代を形成する人々の心象だったりによって、大きく異なるわけですよね。
決して、何かたった1つの明確な「客観的な正しさ」がいつの時代においても共通するものとして、存在するわけでは決してない。
例えば、数十年前までは「お国のために」という理由で、人を殺すことが正義だとされていて、そのために自分の命を捧げることが、誉高いことだった。
どう考えてもそれは完全に間違っていると僕らは思うけれど、それを間違っていると言えるのは、あくまで今の時代の道徳や倫理の中に染まっているからこそ言えるわけです。
その認識は、決して忘れてはいけないことだと思います。
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ただ、そうやって時代の道徳や倫理で断罪すると救われない人々が出てきてしまう。
当然ですよね、時代の道徳や倫理に足を踏まれている人たちも、一方ではいるわけですから。
そんなふうに硬直化してしまっている時代の倫理や道徳の中で、苦しんでいる人たちを、新たなテクノロジーや科学の力などによって救えることもできる状態をうまく活用せよ、ということだと思うんです。
だからこそ、この時に初めて時代の倫理や道徳を根底から疑って、変えて行こうとすることができる。そのようなことをしてきてくれた人たちがいたからこそ今がある。
つまり、硬直化したものを根底から疑い、刷新しようとする人々が、世界を変えてくれるわけです。
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逆に、どの時代においても共通する「客観的な正しさ」があるということを信じ込む姿勢や態度、それこそが、キャンセルカルチャーのような文化も生んでしまうのだと思います。
なぜなら、どんな時代にも「普遍的で客観的な正しさがある」と思うから、その観点に照らし合わせて、当時の道徳や倫理の中では許されていたことを、現代で蒸し返して問題にしてしまうわけですから。
そして、その根拠は「普遍的な正しさ」です。
でも、そんなものあるわけないじゃないですか。
もし仮に何か普遍的な正しさがあるとすれば、それは唯一「普遍的な正しさ」なんてないことを理解し、常に議論や熟議をし続けて、新たに刷新していこうとする態度や循環、その構造だけだと思います。
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例えば今現在においては、“正解だった“とされているクラファンであっても、それは現在からあの時を振り返った時に、そう言えるだけであって、逆にいうと、未来から過去を振り返るという形でしか、それは「正解だった」と語ることはできないはずなんです、本質的には。
もちろん、当時から見えている人には見えているわけだけれども、それはどこまで行っても可能性の話でしかない。
でも、このような認識をうまく逆手に取って「普遍的な正しさ」のようなものさしを当てがってしまうと、そこに大きな誤解を生んでしまう。
他にも例えば、現状web3もNFTも、トークンエコノミーも似たような話で、今の道徳や倫理に照らしあわせてみたら、まだやっぱりそれらは広義の意味では「詐欺だ!」と言われてしまっても仕方ないと思っています。
実際に、今の価値基準を通してみれば、その通りの側面もあるのだから。
でも、時代は必ず追いつくはずです。というか、そうならざるを得ない。そう信じる人たちも間違いなく存在している。
そして、その人たちの行動によって、現代の道徳や倫理において足を踏まれている人たちを、救うこともできるはずなです。
そういう人たちからすると、自らが詐欺師と言われようが関係ないっていうことだと思います。
それはイエスとかソクラテスとか、時代よりも早すぎた人たちが時代の犠牲になって、公開処刑をされたのと同じような構造だと思います。
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そして、また近い将来に、クラファンやweb3ようなものが一般化してくれば、今度はクラファンやweb3よって生まれる悪の側面も必ず生まれてきて、その硬直化がまた未来の人々を苦しめるタイミングがやってくるに決まっています。
このような話というのは、ずっと連鎖するわけですよね。
そしてもっと踏み込むと、そういう客観的な正しさがあると信じ込む態度、それが絶対的な正義だと思い込んでキャンセルカルチャー的に「あいつらは叩いていい!」と判断してしまう、その人間の認識こそが、一番の諸悪の根源なんです。メタ的でわかりにくいですが。
だからこそ僕は、「当時の倫理や道徳で叩いてきた人たち」のことを、現代の価値基準から叩いちゃいけないと、強く思う。
それが、人々に時代の倫理や道徳のようなものを、曲解させてしまう原因にもつながるわけだから。
同じような誤解を増幅させて、生み出したくない構造を再生産することにもなってしまう。
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で、ここで最初の話に戻ってくるのですが、そのためには「民の声」や「コミュニティメンバーの声」をちゃんと聞く必要がある。
何に困り、何を考え、何が豊かさだ思うのか、そこに真摯に耳を傾けること。
そして、それを聞きやすくするためにこそ、常に自分たちが作りたい場や空間というものがどんなものなのかを発信し続けて、コンテキストを共有し、場や文化を形成し、
その「場」に対して参加者全員で敬意を払い合い、場に向かって祝詞をあげるように、主催者が発信し続ける必要があるんだろうなあと思います。
その、すべては「場」の風通しをよくするために、です。
主催者個人でも、イデオロギーでも、客観的で普遍の正義でもなく、「場に敬意を払う」というのは、つまりはそういういことだと僕は思う。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。