(先に書いておきますが、今日は結構変な話です。)

最近、iPad Proに乗り換えて、MacBookから一番の変化は物理キーボードを用いる際に、Google日本語入力が使えないことでした。

これはものすごく単純な話なのにもかかわらず、完全に盲点であって、乗り換える前には全く想像もしなかったこと。

読むと書くの、書くにおいて、とてもダイレクトに影響を与えることにもかかわらずです。

時々zoomの画面共有とかで、macOSの標準搭載の変換「ことえり」を使って変換に戸惑っている人たちを見ると、情弱すぎるなあと思っていたりもしたんだけれども、まさか自分がそれを使わざるを得ない状況に陥ったわけです。

さらにそうすると、ライブ変換も付いてくるというおまけつき。

これには最初、本当に強い違和感がありました。

最近からMacBookを使い始めたという人たちからすると、特に何も違和感ない機能であったとしても、長らくGoogle日本語入力を使ってきた身からすると、本当に違和感だらけなんですよね。

この辺りは、実際にちゃんと自分で使ってみないとわからないことだなあと。

物理キーボードの打ちやすさばかりに気を取られて、全く乗り換える前には、気づきもしなった部分な訳です。

そして、もちろん知識として全ての変化は知っていて理解はしていても、自分の身体感覚を通して初めて感じる体験だったなあと思います。

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で、最初は設定画面から、自分でこの「ライブ変換機能」をオフにしました。

ライブ変換で勝手に変換されてしまう文章を、自分が書いている文章だと思えなかったから。

自分だったら、必ず開く漢字をなぜか変換されてしまったり、その逆もまた然りです。

ただ、数日経って、思い直して、再びこの機能をオンにしてみたんですよね。

その理由は「なんだか、こういうところだよな」と思ったから。

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そして、ここからが今日の本題にも入っていきます。

自分の文章かどうかとか、そんな小さなこだわりは割とどうでもいいな、と思ったんですよね。

自分がどの文字を開くのか閉じるのか、そんなことをいちいち気にしているのは自分ぐらいであって、糸井重里さんのような一流のコピーライターならまだしも、他の人たちは意識もしないだろうなあと。

そして、自分はただのブロガーです。

そのような往年のクリエイターや表現者の人々に憧れて、活動しているライターや編集者の人たちは世の中にたくさんいる。僕以外の人たちが、その部分は勝手に抗ってくれている。

だったら、自分は、それよりもこのような部分に多少の違和感を持ちつつも、新しい方向に乗っていくことのように思っています。

変な話ですが、それが自分の役割のような気がしている。

こちら側には、それを分かった上であえて黙って乗っかってみようと思っている人は、あまり存在していないと思うから。

提供されたままに従っている人たちだけ。MacBookで、ことえりを無意識に受動的に使っている人たちみたいに、です。

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で、ダラダラとどうでもいいことを書いているように思えるかもしれないのですが、今日の学びは非常に重要な気づきであって、一体それは何かといえば、自分にとってそのこだわりは無価値だと思えたら、周囲の権威めいた声に惑わされることなく、淡々と進んでみた方がいいと思うということです。

ただし、それは「そのようなこだわりが、無価値ではないから」ではないんですよね。

ここが今日1番強く強調したいポイントでもありつつ、1番誤解されそうな部分だなとも思うので、以下で丁寧に説明していきたいと思うのですが、

その無価値だと思うものの「価値」に後々気づいた時に、そこにこそ「自らの成長のための余白」が潜んでいるから、です。

自分にとっては、なんの価値もないと思って軽視したもの、でも実は、その先に1番重要なことが潜んでいたということを、自らの身をもって真に体験したときに、人は1番成長をする。

これは間違いないことだと思います。

それを頭でどれだけ想像してみても、気付けないこと、得られない学びがそこには間違いなく存在している。

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例えば、身体的な「痛み」なんかは、とてもわかりやすい。

以前、NHK教育番組「つくってあそぼ」のワクワクさんにお話を伺った時に、子供はカッターで手を切るぐらいの方がいいという話を聞いたことがあるのですが、それにも、とてもよく似ているなと。

そうやって子供が軽視をして、実際に軽い痛みを味わって、その体験を経由して理解した方が、遥かに人生全体においては有益です。

にもかかわらず、現代は痛みや苦しみのようなものは、できるだけ味わうべきではないとして、それを消し去り、世の中から存在しないもののようにしてしまう。

そして、それこそが子供達(無知な者たち)に対する優しさだと大人たちは思い込んでいる。

でも、そんなわけないじゃないですか。

それは親にとっては体験したことがある実態を持った「痛み」を避ける意味かもしれないけれど、子供にとってはそれが未経験の場合には、あくまで知識にすぎない、ただの情報にすぎないわけです。

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大事なことは、本当はそうじゃなくて、自分が無価値だと思っているものを完全に意気揚々とスルーをかまして、その結果から生まれた痛みや苦しみ、悲しみから生まれてくる後悔から得られる学びこそが、真の学びの1つだなと僕は思うのです。

その経験をさせてあげることが、親の役割だと言うことですよね。ワクワクさんが言いたいことはきっとそういうことだったと僕は解釈しています。

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これは例えば、誰にとっても1番わかりやすいのは、よくドラマや映画などでも描かれがちな「失恋の苦しみ」だと思います。

自分が軽視して、関係性を大切にしようとせず、さらにはわがままに振る舞った結果、失って初めてその価値や意味、その重みを理解できるようになるわけですよね。

「恋愛こそが、人間の成長につながる」というのはそれが理由だと思う。

これは、どれだけ先に経験した人間が本人に言い諭したところで、本質的には伝わらないモノなわけです。

でも一度でも経験したことがある人間であれば、その痛みを自分ごとのように実感できる。だからこそドラマや映画でも繰り返し繰り返し描かれるわけですよね。共感力が強い話題だから。

以前もご紹介したことがありますが、これは坂口安吾の「恋愛論」の話にも非常によく似ている。


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でも、それを本当の意味で気づくためには一度、完全に軽視する、無価値だと思い込んで重要視をしないという圧倒的な「フリ」がないと、そこには気付けないのです。

現代社会は、このフリを完全に排除しまくってしまっている。

誰もが失敗するのが怖いから、です。

痛みや悲しみは絶対悪であり、決して味わいたくないから。

インターネット上には、そのような失敗から導かれた後悔が山のように書かれてあり、それに基づいた啓発活動も散々行われてしまっている。

故に「自分にとっては全く無価値だと思うんだけどなあ」と思うことも、とりあえず上の命令に従っておいたほうが無難だろうな、となってしまう。

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本当にそれはもったいないことだと思います。

成長の可能性を、自らの手で奪い去っていることと同じなわけだから。

自分にとっては大して価値があるとも思えないのに、言われるがままに、漠然と学校に通い、漠然といい大学に入り、漠然といい会社に就職して、親の言う通り何1つ痛みを味わっていないけれども、それと同時に、何1つ人間としての成長もしていないというパターン。

それだったら不登校になり、退学して、起業し、大失敗をして、借金もして、その痛みや苦しみを体感してそこから「あー、やっぱり先人たちの言うことは正しかった!」と思った人の方が、遥かに人間的な成長につながるなあと思います。

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でも「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という話があるじゃないか、と思う人もいるかもしれません。

それは本当にその通り。

ただ、圧倒的なフリがあるから、歴史を自らの「学び」に変えられるわけですよね。

もっと解像度高く言い換えると、後悔から生まれてくる葛藤の中に、歴史の叡智が注がれるから、それを学びに変えようという原動力のようなものが生まれてくるんだ、と言い換えてもいいかもしれない。

その後悔の中にこそ、歴史を自らの血肉にしようという原動力が生まれてきて、その時初めて我々は、先人たちの経験、つまり歴史の叡智を手にできるということではないのかなと。

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だからこそ、自分の直感に従って振り切る勇気と、その上でしっかりと転び倒して、その上で、この転んだ原因はなんだったのかを歴史からしっかりと学ぶこと。

先人たちの叡智が自らに染み込むのは、その盛大なフリがあって初めて、本当の意味で染み込んでくるわけですから。

そして、その振り返りや反省の中に生じる葛藤こそが、人間的な成熟へとつながっていくわけです。

もちろん大前提として、自らが軽視したことが圧倒的に正しくて、本当に自分にとっては、ただただ「無価値」の可能性も高い。

それはそれで、めちゃくちゃラッキーだと思います。実際、そうやって不要だったものって山ほどあったと思います。スーツとか、満員電車とか、メール作法とか、そういうやつです。

今日の話はものすごく変な話に感じられてしまったかもしれないですが、故に積極的に「無価値だと思うものを全力でスルーしていく」判断力を持ち合わせていきたい。

「もう若くもないし、まだ中年の域にも達していない」そんな人間の役割とは、そういうことを実践し続けることかもしれないなあと思っている今日この頃です。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。