音声コンテンツの倍速問題。

僕は、自分自身が音声コンテンツに10年以上触れ続けきて、「オーディオブックカフェ」というPodcast番組も自ら配信しているため、本当にいろいろな方々とこの問題について議論してきました。

その上で改めて思うのは、これに関しては明確な答えがあるような問題ではないのだろうなと。

ただ一つだけ言えることがあるとすれば、等倍原理主義者のように「◯倍速以外は絶対に認めません」というひとが一番現実を見誤っているなあとは感じます。

万人に対して、適切な再生速度なんて最初から存在しない。

自分の思考の癖や容量を適宜判断しながら、内容に合わせて臨機応変に変えられることが一番大事な態度だと思います。

「等倍が一番自然(ナチュラルでオーガニック)だ」というような「べき論」はいくらでも言うことはできるけれど、それはもう現代においては、完全に観念的で理想的な世界を妄想しているに過ぎません。

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これは現代に生きる僕らが「スマホ」という道具を用いずに生きることは、もう不可能であることと同義だと思います。

それを実際に実行できるのは、本当に一握りの人間だけであって、ある種の世捨て人のような存在にならなければいけなくなる。

それと同様に、この倍速問題についても、もう少しリアリズムの視点で考えてみたい。

じゃあ、具体的にはどうやったら「倍速文化」で自分を見失わずに、過度な負担を感じることなく用いることができるのでしょうか。

具体的にはどうやったら、倍速文化で失われるもの同時に補っていくのか、ということが問題となります。

僕は、2009年ごろからオーディオブックを活用してきて、Podcastにも長年触れてきたため、倍速文化の功罪を多くの人よりも実体験を通じて理解しているつもりです。

その中で、最近よく思うのは「対話」だけが唯一、「倍速文化」が広く浸透していくなかで、その両輪として機能する可能性があるものなのではないのかなと思うのです。

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これに気づかさてくれたのは、ちきりんさんがつぶやかれていた以下の連続投稿です。

この一連のお話には、とっても共感します。

もう、単なる「情報」のやりとりの場合には「倍速文化」が当然で、等倍が退屈に感じられるようになるのは避けられなくなってきてしまった。

「倍速ネイティブ」の子どもたちが社会人になるころには、もう防ぎようがない社会の変化となるはずです。

じゃあ、どんな場面において倍速ではなく「等倍」で人間同士がコミュニケーションを取ったほうがいいのでしょうか。

それは「自分も一緒に考える、自己の変容を求められる場面」です。

つまり「対話」を行う空間だけが唯一、等倍に値する空間になっていくのだと思うのです。

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乾燥機付き洗濯機やルンバが家事や暮らしの生産性を高めたように、情報のやりとりは倍速にして短縮し、そこで生まれた時間を用いて本当の意味で「他者と対話をする」という等倍の時間を、じっくりと味わっていく。

それが「倍速文化」によって生まれてしまう功罪の「罪」の部分を浄化する、唯一の方法なのではないのかなと。

そのときに初めて、自らの思考や他者との人間関係を消耗していないと心から思えるはずです。

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そんな願いを込めて、僕はこのWasei Salonという対話型のオンラインコミュニティを運営しているのだろうなと思いました。

これは、佐々木俊尚さんが提唱している「散漫力」の考え方の構造にも非常に近い。
僕らが抗うことができない時代の流れの中で、それでも自己を見失わずに、車輪の両輪のように倍速のコンテンツと対話の場を同時に体験していく。

倍速文化がここまで深く根付いていなければ、きっとこのWasei Salonのような場を僕自身が運営していなかったはず。

現代及びこれからやってくる少し先の未来において、絶対に必須となるような場所をどうしてもつくりたくて、このWasei Salonをつくったのだと思います。

だから、何よりも自分のため運営している。

でもそれはきっと同じ時代を生きるひとたちにとっても役に立つはずですし、おもしろいと思ってもらえる場所になると信じています。

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ありとあらゆる情報交換が倍速なっていくからこそ、ゆっくりと立ち止まって、共に問い続けることを諦めないひとたちが集まって「対話」をしている空間に価値が生まれている。

一昔前では考えられなかった話です。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。