さて、昨日に引き続き今日も、養老孟司さんの自伝本「なるようになる。-僕はこんなふうに生きてきた」の本を読んでいて個人的に非常に印象に残っている部分をご紹介したいと思います。

今日ご紹介したいお話は、なぜ、養老さんは人間をカタカナで「ヒト」と表記をするのかというお話です。

ひとをカタカナ表記にすることによって、生物学的な意味合いにとらえてもらえるということが一応の建前であるとは言いつつも、本音部分で言えば「人間」という表記が嫌いだから、というお話が語られてありました。

本音で言えば、「人間」という表現自体が、養老さんの視点から見ると、それは差別用語であると。

一問一答のような、ものすごく何気ないQ&Aの部分での話はありつつも、僕はこの話が個人的にはものすごく強く刺さりました。

なので、この部分を読みながら感じた、僕の感想を少しだけご紹介してみたいと思います。

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では、以下で、該当箇所をふたたび本書から少し引用してみたいと思います。

本音を言えば、人間という表記が好きじゃない。人という字は、中国風に言えば、猿や犬、猫と同じように漢字一文字の人でいいはずだけど、日本社会では人間でしょう。で、人間は「世間の人」という意味もあるから、あんまり使いたくないんだよね。差別用語なんですよ、人間って。世間の人だけが人だって規定していますから。だから、世間に入っていない人は「外人」なんだよ。
         
そのことを意識したのは、「人間って何だろう?」と考え始めた学生時代だったでしょうかね。中国語では「人間」というと人と人の間のことだから世間を意味する。日本でも漱石の時代は、「人間(じんかん) に交わる」と表現し、人間は世間も意味していた。世間に縛られると、漱石が『草枕』で書いているように、「とかくに人の世は住みにくい」ですね。


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僕はこれを読んだとき、ものすごくハッとさせられてしまいました。

なんだか、自分自身の中にある深い深い自分でも意識したことのない思い込みを、ものすごく端的に言いあらわされたような気がして非常にドキッとしたのです。

どうしても僕ら、日本人の中には、世間の中でバランスをとっているものが「人間」という認識がある。

つまり「空気」を読むことができるかどうか、がとても重要な要素です。それがきっと日本人としての「普通」を重んじる文化にもつながっている。

でも、このように当たり前に使ってしまっている言葉において、この意味合いが含まれていることに対して、養老さんのようにちゃんと自覚を持っているひとって、一体どれぐらいいるのかなあと。

もっとわかりやすく言い換えるならば、自分が人間という言葉を生物学的な意味での
「ヒト」という意味で用いているときにこそ、その無意識な差別が存在しているんじゃないかと、まっすぐに養老さんから問われているような気がしました。

そして同様に、何の悪気もなく「外人」という言葉に用いている場合においても、そうです。

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ここで、くれぐれも誤解しないでいただきたいのは、別に僕は「言葉狩り」をしたいわけじゃありません。

こういう話をすると、すぐに形式のほうばかりに目を向けて、言葉狩りをし始めようとするひとたちがいます。

言葉狩りが目的になってしまうひとたちは、そのような言葉を用いているひとたちのことを、今度は逆に差別しようとするわけですよね。「人間」という言葉を使っている、そういう「人間」こそが、差別主義者だと言わんばかりに。

でもそれが一番、この問題点における「人間」の所業、そのものだと僕は思います。

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そうじゃなくて、僕がここで言いたいのは、この言葉の用い方自体に、ものすごく日本人としての無意識の思い込みたいなことが表現されているよね、という話を今したいんですよね。

つまり、「世間」を意識していないものは、人間ではないという無条件の前提のようなものを、僕らは勝手に共有してしまっているんじゃないかと。

あまりにもそれが無意識の前提過ぎて、養老さんみたいなひとにそれは差別だと言われない限り、それさえまったく認識できないというような。

もしかしたら、この話をここまで読んできても、一体それの何が問題なのかと思っている方々も多いかもしれません。

世間を意識できる霊長類の動物=人間でしょう、というようにです。

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さて、ここで話は少し逸れてしまいますが、これは、先日もご紹介した「相模原障害者施設殺傷事件」事件を題材にした映画「月」の中の、殺人のシーンを彷彿させる部分でもあるなあと。

あの映画の中で、障害者をひとりひとり殺していく磯村勇斗さんが演じる犯人役は、殺す前に障害者に対して「心、ありますか?」と聞いていきながら、ひとりひとり殺していくシーンがあります。

彼は、障害者に心がないことに対し問題視をしていて、心があれば障害者でも生きていていいと思っている。

逆に、心がないことが問題だと思うから、「心、ありますか?」と問いながら、当然ひとりひとり何の返答もないから、殺していく。

で、この問いかけっていうのは、まさに「世間」を認識していれば良いということと同義とも言えるわけですからね。

そして、その世間の中でうまく立ち回れているかどうかが、犯人の「生きる」や「幸せ」の基準であると。

そうじゃない人間というのは生きるに値しない、差別されても構わない、そもそも「人間」じゃないと思いこんでいるわけです。ここが本当に恐ろしい部分だなあと。

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でも、これは、僕ら日本人の中にはその感覚が全員間違いなく存在している部分があって、その現れがまさに「人間」という言葉と「外人」という言葉の用い方に現れているような気がしてならないのです。

養老さんはそれをズバッと僕らに言ってくれている。

もちろん、同じように朝鮮人差別や部落差別問題を描いていた映画「福田村事件」も全く似たような話を描いていましたし、ここにフィクションとして「性欲」を絡めたのが、映画「正欲」です。

どれも、「人間」という日本語の中に含まれている差別性、その無意識レベルの問題を提起して描いて顕在化させていた作品のように思います。

誰か明確に悪人がいるわけではなく、日本人のその無意識の思い込みから端を発していることによってどこからともなく生まれてくる世間の「空気」みたいなものと、そのズレに苦しむ人々が被害となる映画。

そして、どの作品も、今年の映画であったことが本当に象徴的です。

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僕は、中国で暮らしていたときに、いつもその感覚を掴むのに必死だった中国語の中のひとつに「人家」という中国語がありました。

この言葉は、文脈にも寄るのですが、日本語でいうところの「ひとさま」や「よそさま」みたいな意味合いを表現をしています。

つまり、中国では、世間のようなものかわりに、家が一個の集合体という意味でもあるんだろうなあと、僕は解釈しました。また世間みたいなものの捉え方が日本人と中国人では異なる感じ。

それを中国人が当たり前のように使うとき、彼らが一体何を言葉として表現をしたいのか、日本人の僕はそれがいつも理解しにくくて、いつもこの言葉が用いられているときには、注意して聞き入っていました。

それと同様のことを、きっと「人間」という日本語を「ヒト」という言葉と同義のように用いている僕らの中には存在していて、あまりにも当然になりすぎてしまってそれを見落としてしまっていることに、ひとつの盲点があるような気がしてならないわけです。

だからこそ、今回この本を読みながら、養老さんから、このことを真正面から言及されて、非常にハッとしてなんだかドキッとしてしまったのだろうなあと。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの考えるきっかけとなっていたら幸いです。