最近、養老孟司さんの初の自伝本「なるようになる。-僕はこんなふうに生きてきた」を読み終えました。これがとってもいい本でした。


で、今日は、この書籍の中から養老孟司さんが最近よく言及している「地震の話」をご紹介してみたいなと。

具体的には、日本という国は本当は大地震が起こるごとに変化してきたのではないか?というお話です。

早速、以下で少しだけ本書から引用してみたいと思います。

日本という国は一〇〇年に一度は大きな震災が来る。だからこそ、今も鴨長明の『方丈記』が読み継がれている。     近代になり、「脳化」が進んでも、災害の多い日本では、この感覚は存外強く残っているんじゃないか。大正デモクラシーがあっという間に吹っ飛んでしまったのは、よく昭和不況が理由にされるけれど、僕はそうは思わない。あれは二〇二三年で一〇〇年になる関東大震災(一九二三年) が大きかったと思う。「あれだけ都市が壊れ、人が死んだんだから、社会体制の変更なんかなんでもねぇや」ということになり、人々の意識も揺らいだ。
(中略)
幕末の安政の大獄とそれに続く倒幕も一八五五年に江戸を襲った安政の大地震がからんでいると思う。歴史の教科書では、ペリーの黒船が大きく取り上げられ、それが討幕運動に発展したとされるけれど、それは歴史の動きを、人の営み、社会の変化だけで考えるからでしょう。でも、自然との関わりも重視する俺が歴史を書くなら、安政の大地震を書くね。あの自然の猛威を見たら、「人間のやることなんて大したことはねえ」と思えるから、二五〇年続いた徳川幕府だって壊してもいいって、みんな納得するんですよね。


これはきっと本当にその通りなのだろうなあと、僕も思います。

そして、この話を読むたびに「逆になぜ、このような歴史的事実が言及されてこなかったのか」そこばかりが僕は気になってしまいます。

つまり、現実には、そうであった可能性があるにも関わらず、なぜ歴史の中にはそのような形で記述されてこなかった不思議のほうに対し、僕はもっともっと目を向けてみたいなあと思ってしまうんですよね。

で、僕の仮説は、つまりそれを「政争の具」にしてきたということでもあるんだろうなあと。

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きっと、この話は自分たちの実体験に引き寄せたほうがわかりやすい。

ここで、話は少しそれますが、最近よく思うのは、「人口数」が大体のことは決めているんだろうなあと思うことが増えてきたということです。

たとえばこの点、90年代のカルチャーはなぜか未だに何度もリバイバルされていて、あの時代の若者カルチャーというのは特筆して完成度が高かったと神聖視されている印象が強いです。

そして、世の評論家たちは、その優れている理由を他の時代のカルチャーと比較して、優れている理由をこれでもかと言い立てる。

僕らはそれを聞いて、なんだかわかった気にもなっている。そんなふうに、未だに90年代のカルチャーを引きずっている印象を強く受けます。

でもそれっていうのはきっと、単純に当時は若者の「人口」が多かっただけ、とも言えると思うんですよね。

具体的には、団塊ジュニア世代が、当時ちょうど10代〜20代で人口ボリュームが大きかったから、少しの火種でもすぐに大きくなった。

で、この人口数もある意味では「自然」の一部の話なんですよね。きっと、それ以上でも以下でもない。

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もちろん、そのカルチャーを発信する層が多かったから、優れた才能が多かったということもできるとは思うけれど、それさえもまた「鶏とたまご」のようなもので、今の若者カルチャーを当時に持っていけば、同じように今の時代のカルチャーが神聖視されることは間違いないかと思います。

ただし、人口のせいだったという理由でくくられると都合が悪いひとたちがいまの業界関係者の中にはたくさん存在している。

言い換えると「自分たちの才能のおかげなんだ」ということにしておきたい為政者たちが、音楽やファッションに限らず、各業界ごとにたくさんいるわけですよね。

そして「お前たち(主に下の世代)には作れないだろう」ということにしておきたいわけです。

単純にそのようなものごく恣意的な理由から「人口ボリューム」の話ではなく、あくまでカルチャー自体の質が高かった、ということになっているんだと思います。

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さて、話をもとに戻すと、日本の抜本的な変化が自然災害、主に地震が理由だと言及されてこなかったのもきっとここに理由があるはずで。

この話というのは「歴史とは、常に勝者の歴史である」という話にもとてもよく似ているかと思います。

「原因と結果」の因果関係において、聞き手に特に違和感がなければ、それが歴史的な「真実」になりえるということなのでしょうね。

これはきっと「裁判」の誤解の話にも近くて。

法学部生が大学に入って一番最初に修正される事実認識は、裁判というのは決して真実を解明する場ではないということです。

何が一番「確からしい」のか、それが判断されるところ。

誰がどうみても、これだけの証拠を見れば確かにこの人の言うことは疑いなく正しいのだろうな、と言えるだけの証拠がそこにあるかどうかなんです。それを正式な手続きでもって争うのが、裁判所という空間。

極端な話、別に真実なんてどうだっていいんです。

むしろ、誰もが信じる「真実らしさ」のほうが圧倒的に重要で。なぜなら、法律というものがそもそも権利と権利、その利害関係がバッティングしていることを、解決するための手段だからです。

言い換えると、自然科学のように、客観的な真実を明らかにしたいわけではなく、人間同士の利害関係のバッティングを第三者が入ることで調停したいだけ。

だから、解明したいのは、社会性としての「確からしさ」なんですよね。

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これと同様に、大きな自然災害のあとに政権が転覆しているのが、この国の現実だとしたところで、社会の真実としては、それだと都合が悪い。

なぜなら、そこに未だに入れ替え可能性が存在し続けてしまうからです。

だから、ときの為政者たちは「自分たちこそが統治するのにふさわしい存在なんだ、この場にいてもいい人間なんだ」というふうに世間を納得させるために、地震の影響の話は最小限に話して、自分たちが行った施策が、いかに優れていたのか、当時という時代を救ったのかを語る。

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逆に言うと、自然の力あったとしても、それが自分たちの有利に働く場合は自然の力を自分たちが呼び寄せたというふうにも語りがち。元寇の神風の話なんかはまさにそうですよね。

あの時代にはまだ、神話と科学的な知見も同一視されていたような時代であって、自分たちこそがそれを引き寄せたと社会に向かって堂々と言えた。

これが、日蓮の話なんかにもつながってくるかと思います。

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だから、歴史というのをそのまま記述されいているどおりに真に受けるのは、きっとどこか間違っているんだろうなあと思います。

本来の原因は、一体何だったのかを自分なりに探ること。仮説をたてること。

過去に遡って真実を見に行くことができない以上、あくまで憶測の範囲の域を出ないけれど、でも自分が生きている世の中で相似形を見つけたタイミングにおいて「あっ、実はそうだったのかもしれない」という考える訓練は非常に役に立つと思います。

そして、だからこそ、僕は養老孟司さんの「2038年に起きると予測される巨大地震によって日本がまた変わりうる可能性がある」と警鐘を鳴らし続ける態度には、意味があることだと感じます。

これをグレートリセット待望論だと揶揄する言論人も多いですが、実際のところはそうだったろう、という極めて真っ当な現実問題の話なんだと思います。

言論人のように、人為的な方法で日本を変えるんだ息巻いてみたところで、ものすごく些末な議論というか、それはきっと枝葉の部分に過ぎなくて。

人為的に何かトレンドを作り出せると思っていることのほうが、僕は何か現実を大きく見誤っているような気がしています。人の力を過信しすぎです。

もちろん、それはアウトプットのクオリティを軽視してもいいとか、努力を怠っても良いという話ではないけれど、もっと大局観をもたないといけないなと。

「人事を尽くして天命を待つ」とはきっとそういう意味でもあるはずです。

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「自然」を見てみることがものすごく大事。

これは、脳化社会に生きていて自然と切り離されてしまっている僕たちが完全に見落としがちなことのような気がしています。

コンクリートジャングルに住んでいても、大半のことは未だに「自然」によって左右されている。

なるようになる、とはきっとそういう意味なだろうなあと。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。