ローカルに移住しているひとたちに話を聞かせてもらうと「ここに移住してきて、自分の時間を取り戻すことができた」というような語り口を、本当によく耳にする機会が多いです。

僕自身、取材中に何度もこの言葉を直接聞いたことがありますし、もちろんマスメディアでも広くそのような言説は取り上げられることもあるかと思うので、きっとこのブログを読んでくださっているみなさんも、どこかで一度は見聞きしたことはあるかもしれません。

もしかしたら、今現在ローカルに住んでいる方々は、自分自身の口から「自分の時間を取り戻した」というふうに、他者に語ったことがあるという方もいるかもしれませんね。

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じゃあ、そんなひとたちは、都会に暮らしていたタイミングと異なって、毎日好き勝手、自由な時間を生きているのかといえば決してそんなことはなかったりします。

農作業だったり、地域の季節の行事だったりと、意外と日々の営みに追われていたりする場合が多い。

もちろん、そこに子育てや動植物のお世話なんかにも追われていたりして、実際は毎日やることがいっぱいだというような状態も多いかと思います。

つまり、「自分の時間を取り戻した」と語っているひとたちも、本当の意味での、完全にひとりで好き勝手に過ごせる自由な時間みたいなものは、客観的に眺めてみると、意外と少なかったりする。

でも、ローカルに移住しているひとたちは、口を揃えたように、都会で毎日あくせく働いていた時代とは異なって、「自分の時間を取り戻すことができた」という語り方をしますよね。

この矛盾というか、この不思議。そこに僕はもっともっと注目してみたい。

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では、なぜ、そのようなローカルの暮らしの時間の使い方においては「自分の時間を取り戻した」と呼ぶのでしょうか。

だってこうやって考えてくると、都会暮らしのひとも、ローカルに移住したひとも、「時間」に追われていることは何も変わらないのだから。

その違いは、「仕事」に追われる時間なのか、「自然」に追われる時間なのか、の違いでしかないはずです。

でも、ここが本当に大きいのだろうなあと思います。

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この点、もしかしたら、客観的な「自由時間」という尺度やものさしで考えると、土日祝日がはっきりしていて、週休2日間は何をしていても構わない余暇な時間があるような都会のサラリーマンのほうが、実は「自由な時間」は多そう。

でも、そのような都会の人たちは、いつも何かに追われているような感覚を持っていて、「自分の時間」を何者かから、常に奪われているように感じているわけですよね。

つまり、今日のタイトルにもあるとおり「自然の流れに順応すること」を、自分の時間を取り戻すと呼ぶ不思議が、そこに存在するなあと。

見方を変えて、言い方も同時に変えてみると、ローカルに移住した人々は、自然という存在(ブラック上司)に自分の時間を搾取されていると言えなくもないのに、そうとは言わず、そのような状態こそ「自分の時間」と定義して、それを「獲得」したのではなく、「取り戻した」と感じるのって、本当にすごい表現だなあと。

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この点、ローカルに移住した人たちは、その暮らしや生活を自ら主体的に選んだからでは?と思う方もいるかなと思います。

確かに、主体的に選択した結果でもありそうではあるけれど、それだったら都会の経営者や個人事業主だって同じようなもので。

また、地元から一度も出ていないローカル在住の方々は、自分の時間に追われている感覚を抱いていてもおかしくはないはずなのです。

でも、どちらもそうじゃないわけですよね。

やっぱり「自分の時間を取り戻した」という感覚は、ローカルのほうがその実感は大きいのだと思います。

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繰り返しますが、ローカルのほうが常に、天候や自然を相手にしていたりするわけで、本当に予測はまったくつかないような状態なわけです。

たとえば、1週間前から「この日に晴れたら、◯◯をしよう!」と思って完璧に計画をしてみても、その日の朝に雨が降ってしまったら、完璧に立てた予定は台無しです。

そのような雨天中止の臨機応変さは、ときに都会のオフィスで取り仕切られる仕事以上だったりするわけですよね。

それにも関わらず、自らの手中にあると感じられるというのは、本当によくよく考えると、とっても不思議なことだなあと。

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きっと大事なことは、「自然の流れに対して、自らが何も逆らわずに順応できているという状態」その充足感であって、そのような感覚が、自分の中に存在しているひとたちは自分の時間を取り戻していると、強く表現するわけですよね。

逆に、都市や資本、またそこから生まれる経済やお金の流れに否応なしに流されていないような状態においては、同じ不可抗力の流れであっても、自分の何かが奪われていると強く感じてしまう。

これは以前もご紹介した「クロノス」と「カイロス」の話にも非常に近いのだと思います。


カイロス的な「とき」に、自分がいま合わせて動いていると思えるときに、ひとは自分の時間を取り戻したという風にきっと語るのだろうなあと。

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じゃあ、このような状態にあるとき、ひとはなぜそれを「自分の時間」だと思えるのか。

言い換えると、「自分とは何か」そして「ヒトという生き物において、自然との調和とは一体どういう意味をもたらすのか」です。さらになぜ、それを「取り戻す」と表現するのか。

そのような根源的な問いについて、ものすごく考えさせられる発言だなあと、本当にいつも思います。

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きっと現代の都会には、自分の時間を取り戻したいと日々願い、ゆえに自分が好き勝手に使える自由な時間が欲しいと切望し、そのために、実質的に時間を買えるだけのお金や地位が欲しいと願っているひとは、かなり多いと思います。

でもきっと、そうやって手に入る「自由な時間」を本当に念願叶って手に入れてみたとしても、決して求めていたソレではないんだろうなあと思います。

僕らは、田舎暮らしをしているひとたちの「自分の時間を取り戻した」という発言を、なんだか当たり前のように日々受け入れて聞いているけれど、もっともっとこの意味するところを真剣に考えてみたいなあと。

それがきっと「人が生きるとはどういうことなのか」という発見にもつながっていくはずだから。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの考えるきっかけとなっていたら幸いです。