多数派にとって何か許しがたい出来事が起こると、みんなでそれを一斉に批判をし始める風潮は近年いたるところで目にします。

なぜそこまで完膚なきまでに批判することができてしまうのかと考えると、自分の意見が圧倒的に多数派でありそれが良識であると信じて疑わないからなのでしょう。

相手の言い分なんて、聞くに値しないと思ってしまう。このような判断のもと、毎日炎上している案件というのは枚挙にいとまがありません。

でも実際は、それは「批判」ではなく、ただの「誹謗中傷」に過ぎないのだと思います。

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この点、以前もご紹介した哲学者・仲正昌樹さんの『統一教会と私』の中にとてもハッとさせられる文章が書かれてあったので、ここに少し引用してみます。


    自分にとってどうでもいいことを聞きのがすのは、簡単なことである。しかし、あえてどうでもいいことや、自分の生き方や人生観からいえば、絶対に受けつけることができないような他者の言葉や考え方を認め、許容すること。それこそ、西欧思想史において繰りかえしその重要性が強調されてきた「寛容」の思想である。     

    自分から見て、聞くに堪えないようなひどい考え方や生理的に受けつけないような考え方をしている相手であっても、自分に直接的に害がおよばず、社会にも危害がおよばないのであれば、排除したり社会的に抹殺するのではなく、まず話を聞いてみるべきである。

いやな考えであれば批判してもいいが、批判する前に、その“いやな考え”をじっくり聞き、よく吟味すべきである、じっくり話しを聞かず、話の内容を検討する前に非難しはじめるのであれば、それは「批判」の名に値しない。ただの誹謗中傷である。


「寛容であることが大切である」ということに賛同しない現代人は、きっともういないはずです。

にもかかわらず、「聞くこと」をせずに、批判という言葉を隠れ蓑にした「誹謗中傷」を繰り返してしまうことが、やめられないのは一体なぜなのでしょう。

たぶん、そうしないと単純に不安なのだと思います。

自らの価値観が正しいことを、何かを批判する(もしくは肯定する)という運動のもとに、他者と団結しないと、自らの正しさを証明することができない。

だから、何かを誹謗中傷して自らの立ち位置を明確にしていないと、不安でいてもたってもいられないというのが、きっと現代人ということなのだろうなあと。


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これは決して思想や政治、宗教など硬い話だけに限りません。

たとえば、近年定番化した「推し活」。

最近放送されたNHKの『歴史探偵』のなかで「戦争とアイドル」が特集されていました。

冒頭で、僕より少し年上のアナウンサーの方が佐藤二朗さんから「あなたの時代の好きだったアイドルは?」と聞かれて「私の時代は、SMAPでした」と語っていたたのだけれども、その言葉を聞いて「当時、SMAPを推しているつもりだったひとは一体どれだけいたのだろうか?」とふと疑問に感じました。

幼いころの僕の記憶としては、みんなで一緒にSMAPを楽しんでいるというイメージが強かった。

でもAKBグループの総選挙が始まったときぐらいから、その潮流が間違いなく変わってきたと思います。何かを積極的に「推す」ことが、自らのアイデンティティを確立する行為へと変化してきた。

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この点、新興宗教と左翼の歴史を学んでいると、両者は非常に対立しているうえで、密接不可分(セット)だったことがとてもよくわかってきます。

お互いの存在を、お互いが対立する中で証明しているかのようにして両者が成り立っているんですよね。

自らの正しさを主張し合って、ときには文字通り誹謗中傷し合って、自らの立ち位置を明確にしている。

そうやって自分とは全く異なる意見の対立候補を、自らの「確からしさ」を確認するために必要としている、まさに共依存のような関係性です。

その証拠に、左翼運動が世界中で沈静化していくと、同時に新興宗教も落ち着いていったようです。

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この人間のバイアスを意図的に利用して、全員が熱狂できるようにつくられた仕組みが「プロレス」と呼ばれるものなのでしょう。

見ている側も「お約束」だとわかっていながら、みんなで熱狂する場所をつくっている空間。

ただし、現代においてはその境目が、極めて曖昧になってきているなとも感じます。

自分たちは一体何に熱狂させられているのか。推しているように感じつつ、実際は推さされているだけだったりするのではないか。

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いつもこのブログに書いている結論と、今回もまったく変わらない結論になってしまいますが、まずは「聞くこと」が本当に大切だなあと。

どれだけ苦手な意見でも、まずは最後まで丁寧に耳を傾けて聞いてみる。お互いに聞かないまま対立していくから、お互いがドンドン硬直化していくのだと思います。

そして、その硬直化が、自己のアイデンティティを確立しているような錯覚をおぼえて非常に気持ちの良い行動となってしまう。もちろん似た者同士で団結する理由にもつながっていきます。

いま自分の中で、相手の意見を聞くだけの余裕がないのなら、まずは関わらないこと。大衆に紛れて石を投げるくらいであれば、無関心を貫いたほうがいいと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとって、今日のお話が何かしらの考えるきっかけとなったら幸いです。