10年ぐらい前から流行り始めた「人生でやりたい100のリスト」。

今では自己分析の定番となり、このリストをつくったことがある、もしくはつくっている最中に挫折したことがあるという方も多いはず。

僕は、このリストをつくること自体は一切否定しません。

実際、多くの方が亡くなる直前に、人生で後悔していることのひとつとして「本当にやりたかったことを、やらなかったこと」だと語り、この項目が必ず上位に入ってくるという話は至るところで目にする話です。

だから、同様の後悔をしたくない人にとっては、このリストをつくることは非常に価値のある行動だと思います。

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ただ一方で、死ぬ間際に「100のリストを完全にやりきったから大満足で死ねた」というひとの話もまず聞かないと思います。(少なくとも僕はまだ聞いたことがない)

「本当にやりたかったことをやらなかった」という後悔をするひとが多いという事実だけで、それをそのままひっくり返して、「100のリストを作成して、実行すれば必ず満足して死ねる」と思い込むのはきっと間違いでしょう。

むしろ、100のリストを完全にやりきったからといって、人生が本当に幸福になれるかどうかはかなり怪しいと思うのです。

たぶん、100個すべてやりきったあとに残るのは「幸福とは、自己の願望を叶えることだけではなかった」という当たりまえの事実に気づくだけだと思います。(あくまで僕の憶測にすぎませんが)

つまり、死ぬまでに「100のリスト」をやりきったという事実は、少し先の「問い」に出会えるというだけです。

そこは決して、人生の山頂ではない。

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こういう話をしてくると、ニヒリズムや絶望を語っているように聞こえてしまうかもしれないですが、個人的には割と希望だなあと思っています。

それは、なぜか。

人類は、そうやって少しずつ前進していくほかないと思うから。

そして、時にはおもいっきり後退することもある。たぶん今も人類の歴史全体で見れば、後退期〜停滞期の最中にあると思います。

でも、その間に発展していることもたくさん存在していて、たとえば今ならテクノロジーが急速に発展していて、その恩恵をいつか人類がうまく活かせる日がきっとやってくるでしょう。

それは、僕らが生きている間かもしれないし、そうじゃないのかもしれない。

ただ、少なくとも決まっていることは、僕らの後悔を次の世代が過去の歴史の教訓としてつないでいくことは間違いない。そして、彼らも同様に僕らとは異なる「後悔」をするはずで。

僕らの知らない後悔の先の新たな「問い」に出会い、その問いの答えを見つけることができなかった後悔をまた、次の世代に残していくことでしょう。

その証拠に「やりたいことをやらなかった後悔」なんてきっと、100年前の世界では想像さえされていなかったと思いますから。

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そのためには、早めに先人たちの後悔を知り、その「問い」をしっかりと受け継いで、自己の人生の夢の片鱗になるべくはやく触れていくことなのだろうなあと思います。

最近は季節柄、戦争関連のドキュメンタリー番組を観る機会が多いので、そんなことをふと考えていました。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。