お盆休みのあいだに、こんなツイートをしてみました。
10代のころは意味不明だった歴史上の出来事が、30代になってくると自身の経験とも相まってスッと理解できるようになってくる不思議。
であれば、更に年齢が倍になって、60代になったころに初めて理解できることもたくさんあるはずです。
歴史のお勉強として若い時期に集中的に暗記してわかった気になるよりも、毎年8月になるとお決まりのように学ぶほうが、実は理に適っているようにも感じられてくる。
そうやって少しずつ、少しずつだけれども、自らの理解できる余白が増えてくることがとっても大切なのかもしれないなあと。
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今年はなぜか、吉田茂について調べることが多かったのだけれども、吉田茂が戦後どうしてあのタイミングでサンフランシスコ平和条約とともに、日米安全保障条約を結んだのか、若いころはその歴史的事実自体は認識できていても、吉田茂の心中を想像することはしなかった。いや、できなかった。
でも、年齢を重ねるにつれて、少しずつ理解できる余白が生まれてきているなと思います。
日米安全保障条約の署名欄に側近たちの名前は書かせずに、自分の名前だけしか書かなかった意味もなんだかとても深く考えさせられる。
このような気づきを得ていくと、少しずつ当時の時代を生きていた人々に親近感(シンパシーではなくエンパシーのほう)のようなものが生まれてきて、自分たちもまさにその「地続き」に生きているのだという実感も湧いてきます。
それはきっと、子どもを産んだり、両親と同じ年齢になったときに「両親もひとりの人間として、あのとき葛藤していたのだ」ということに、後から気づく感覚にも非常に近いと思います。(その両親の判断の良し悪しとは別にして)
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あと3年後には戦後80年を迎えるにもかかわらず、学べば学ぶほど、何も終わっていないし、何も変わっていない。いまだ民主主義もなされていないと思わされる。
でも、そのこと自体は決して悲観的なことではないと思います。
なぜなら、そもそも民主主義とは、永遠に存在しないものだから。
内田樹さんは、第二次世界大戦後のチャーチルの有名な演説「民主主義は最悪の政治形態といわれてきた。他に試みられたあらゆる形態を除けば」の話を引用しつつ、こんなことを書かれています。
民主主義はまだ存在しない。私はそう思っている。「まだ」というか、たぶん永遠に存在しない。 民主主義は「 それをこの世界に実現しようとする遂行的努力」 というかたちで、 つまりつねに未完のものとしてしか存在しない。
それでいいのだと思う。 高い目標をめざす努力というのはどれも「そういうもの」だからだ。こちらの目の黒いうちに民主主義を実現することがかなわなくても、それを目指して前のめりに息絶えたということなら私の方には特段文句はない。
引用元:『街場の芸術論』
この解釈に、僕はとっても共感する。だとすれば、その「不断の努力」を終わらせないことが本当に大切なことなのだろうなと。
参照:「不断の努力」と「普段の努力」の関係性。
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そのようにしながら共同体をつないでいくこと。自分たちに無償の贈与として贈られているものを発見し感謝をしつつ、それとともに彼らが必死で託したかった想いにも、少しずつ気がついていくこと。
右派と左派に分かれてお互いに高尚な理想を押し付け合うのではなく、各人ひとりひとりが年齢を重ねるとともに、自ら発見していく作業が本当に大事なのだろうなあと思う。お盆に関連した「先祖供養」の話にも非常によく似ている。
参照:過去と縁を切った人間は、必ず未来とも縁を切るようになる。
今年も残り2週間は真剣に、戦争と平和についてしっかりと考えてみたいなあと思っています。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。
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