これは語り方がめちゃくちゃむずかしい話だなあと思いつつ、実際に鬱経験があるひとほど「悩むな、考えるな、行動しろ!」ということを言いがちだなと最近よく思います。

もちろんそれは、決して悪意で語っているわけではない。自分自身が実際にそうやって大きな石に躓いて転んだから、良かれと思って言ってくれているわけです。

つまり、100%善意で言ってくれているわけですよね。

しかし、その背景には「再び鬱の苦しみに引き戻されたくない」という恐れが潜んでいるようにも感じられます。

その結果として、鬱の根本的な矛盾や痛みに触れること自体を避けてしまっている傾向があるのかもしれないなあと感じることが、なんだかとても増えてきました。

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僕は、それこそが、一番鬱に悩んでいる状態というか、鬱に怯えている状態とも言えるんじゃないかとも同時に思うのです。

言い換えると「悩みすぎることに対して、悩みすぎでは…?」と思ってしまう。

「悩むな、行動しろ」は圧倒的に正しい。それは間違いない中で、「あんなところ、絶対に行くべきではない」という形で神経質になることは、逆に鬱に怯え過ぎている感じがある気がします。

むしろ、その恐れこそが、新たな「精神的な縛り」になっているという逆説が、現代社会には間違いなくあるよなあと思うわけです。

鬱=悪であり、そこから生まれるネガティブループ=罪となってしまっている気がします。

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で、このように僕らは現代人は、精神的に落ちることを今ものすごく恐れている。

というか、そのような他者からの眼差しに耐えられない。

そんな眼差しを他者から向けられるぐらいだったら、大衆消費文化にまみれていたほうがまだマシだと感じるひとのほうが、世の中の人々の大半の思考回路だと思います。

だかこそ、そこから目を必死でそらすように、これだけ推し活なんかも流行る。

推し活はそれぞれの「物語」をわかったうえで消費しているだけに過ぎないから「ディズニーランドに行く」みたいな話であって、問題はないということなんでしょうね。

一方で、あのひとは「陰謀論にハマっていたんだ」ということが、ものごく哀れなこととして語られる実態がありますよね。

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たとえば、先日の韓国大統領の戒厳令の騒動なんかもそう。

「大統領は、極右YouTubeチャンネルに騙されていたんだ」という話がまことしやかに語られる。

それに納得感を持って僕ら大衆は聴いてしまう。「そんなこともあるかもな」という風に。

その再生時間や再生回数なんかも一切わかんないのに、です。

つまり、「陰謀論にハマった」「極右YouTubeチャンネルに騙された」といった話が、まるで一種の失敗談や愚かさの象徴として語られる風潮、そこに納得感を持ってしまう僕らの中に「正しさ」を求める社会の圧力を強く感じさせる部分が内在している気がします。

このような「正しい側」に属さないことへの恐れが「精神的に落ちる」ことへの過剰な恐怖も同時に生んでいるようにさえ思います。

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こうなると余計に、世の中には「政治的正しさ」が跋扈するようになる。

みんな落ちたくなくて、必死ですからね。そして、そうならないためにAIを用いようという話にもなってくる。AIこそ、「政治的正しさ」の権化みたいなものだからです。

つまり、「アップデートされた正しさ」を信じることは、ある種の救いでもあるわけなのですが、その背景には「過去を断罪すれば、未来は良くなる」という単純化された信念が潜んでいるということでもあるわけです。

でも、このような正しさの追求は、たぶんあまり意味がなくて、僕ら人間は「人間」だからこそ数々の過ちを繰り返すし、その政治的正しさも、常に訂正され続けるということでもある。

そう考えると、本当は、その人間の矛盾それ自体に向き合うことのほうが大事なはずなんですよね。

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これは最近、ついにオーディオブック版が発売された哲学者・東浩紀さん『訂正可能性の哲学』を改めて聴いている中で思ったことでもあります。

改めて聞き返して、とても印象的だった部分から再び少しだけ引用してみたいと思います。

人間は厄介な存在である。仕事相手が機械ならばどれだけ楽かと、だれもがいちどは思う。けれども、では現実に人間のコミュニケーションを完璧に模倣して生成する人工知能が現れたとして、問題は解決するだろうか。実際にはぼくたちは、ほかならぬぼくたち自身が人間であるかぎりにおいて、その機械のなかに「人間らしさ」を探して一喜一憂してしまうだけではないだろうか。現実にはそんなものは実在しないと知っていたとしても、人間らしい心を発見して喜んだり、逆に裏切られた気持ちがして悲しんだりしてしまうだけなのではないか。


これはとても共感するお話です。

それゆえに、東さんは、ぼくたちが日々直面している生きることの尼介さは、そもそもゲームの相手が人間だから生じているのではなくて、ゲームの規則が不完全だから生じているのでもないと語りつつ、

ぼくたちが人間だから生じている。肝心のぼくたちが規則を不完全にしか運用できず、つねに訂正を加えてしまうプレイヤーだからこそ、すべての問題は生じているのだ、という話を丁寧に語ってくれています。

でも、僕ら一般人はそんなことにはまったく聞く耳を持たない。

相手が人間でなければいいのに、という幻想ばかりを抱いてしまう。

その結果として、AIが生み出す「データ民主主義」のようなものに憧れてしまうわけですし、昨日の三越伊勢丹のような話にもつながっていく。

これもすべて、経済合理性の正しさが導く帰結だと思います。

「資本主義 × DX × AI」の威力みたいなものが、今大企業を中心に一気に花開き始めていて、これからの10年はきっと、過去10年とは比較にならないぐらいの変化が起きてくるはずです。

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でも、そのときにはもう人々は、自分の頭で「正しさ」なんて考えようともしなくなる。

東さんは本書の中で以下のようにも語ります。

むろん、正しさを求めるのは大事だ。けれども、あまりに長いあいだその言葉が便利に使われてきた結果、人々はむしろ本当の正しさとはなにかを考えなくなってしまった。いまの基準で過去を断罪さえすれば、それが正しさなのだと信じるようになってしまった。いまや多くのひとが、かつて世界は性差別と人種差別に満ち、マイノリティや被害者の声は封殺されていたが、みなが意識を変え、アップデートされた「正しさ」を導入しさえすれば、明るい公正な未来が訪れるはずだと単純に信じている。少なくともそう信じるふりをしている。これもまたリセットの幻想である。


で、僕は、このあたりの真の意味は、優れた小説を読まないとわからなかったなあと思います。

僕は今年に入って、村上春樹の電子版で出でている書籍をすべて読み、ドストエフスキーもWasei Salonメンバーと一緒に読み、これらの小説を通じて「地下二階」に降りていくことの重要性みたいなものを強く実感しました。

ここに「バカの壁」があったんだなあと再発見したような気分です。

「地下二階に降りる=感情や矛盾に真正面から向き合う行為」は、もちろん怖さを伴います。こっちにいったら落ちるって分かるからとても怖い。

そうやって、好奇心や感情よりも、思考が勝るわけですよね。その結果、地上だけで時間を潰したくなる。

しかし、その怖さを乗り越えることでしか到達できない領域があることも確かだと思います。その道は、歩み方を間違うとすぐに鬱状態に陥るという危険な道でもある。

別に全員が行く必要もないし、たぶん9割の人間は興味も持たず、浮世のエンタメにまみれて死んでいく。そしてそれは、何ひとつ間違っていない立派な生涯でもある。

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でも僕は、その残りの1割の人たちと共に問い続けたいなあと思うんですよね。地下二階に降りていきたいなとも思う。

これはものすごく変な言い方だけど、9割の生き方は、もう何度も何度も繰り返してきた感覚さえ、自分の中にはなぜかあります。

残されている道はここだけだよなあと思って、でもずっと「この先は行ってはならない」という風に教わってきた感覚があります。「行ってはならぬものは、ならぬのです」というようふうに。

そして、確かに絶対に行っちゃダメ。でも行かないのもまた、何度も同じ人生を繰り返すような話でもあって、やっとその意味が少しずつ理解できてきて感覚があります。

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なにはともあれ、僕はこの「人間が、人間だからこそ持ち合わせている矛盾」と素直に向き合いたい。AIが出てきた今のこのタイミングは、その絶好のチャンスだとも思うからです。

ちなみに、このブログをAIにも読ませてみたところ、

あなたの言う「1割の道」を選ぶという決意について、一つ質問させていただきたいのですが、その道を選ぶことで得られると期待している具体的な学びや発見とは、どのようなものでしょうか?


こんな質問を返してきました。

それがわかっていたら、そんな道に進む必要なんて全くないわけです。これこそがAIの罠だなあと思います。既にわかっていること、予測できることだけを、挑戦させられるジレンマ。

最後は完全に蛇足でしたが、いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のこのお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。