昨日、Wasei Salonの忘年会が東京で開催されました。


今年も、昨年に引き続き、渋谷にあるオシロさんのオフィスで開催させていただきました。

昨年に負けず劣らずの、本当にとっても素晴らしい会になったなあと思います。

無礼講というような形で何か派手に盛り上がるわけではないけれど、穏やかで優しく、誰一人として取り残さないオフラインイベントを実現することができたなあと思っています。

今日はそんな昨日のイベントの振り返りを少しだけ。

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これは昨年の忘年会のあとも全く同様の話を書きましたが、どうしても、忘年会のような大人数が参加するイベントでは孤立するひとも出てきてしまいがちです。

だから、Wasei Salonの場合は「小さな交流会」という6人が上限の少人数制のイベントを中心にオフラインイベントは開催してきました。

しかし、Wasei Salonメンバー限定の忘年会イベントの場合においては、本当に誰一人孤立せず、みなさん楽しそうに過ごしてくれていて、これが毎年本当にありがたいなあと思います。

運営側の僕としては、このような景色を眺める事ができることが何よりも嬉しいことですし、このような場を、今年も年末のこの時期に開催することができて、本当に良かったなあと思っています。

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あと、こういう自社主催のイベントを開催すると、必ずあるあるな状況が、主催者側と話したがるひとたちがいること。

「一言だけでもご挨拶を」みたいな形でワラワラと集まってくる。それが嬉しくて、気持ちがいいんだという主催者もいると思うんだけれども、僕は、あの感じがあまり好きではありません。

そのような態度や振る舞いが、会場内に自然とヒエラルキーのようなものを生み出してしまうと思うからです。

なので、個人的には準備と撤収に徹したいなあと思っていましたし、実際、懇親会の時間であっても無理矢理にでも僕と話したがるようなひとがいなかったことは、本当に嬉しくて感動してしまいました。

みなさんそれぞれに、隣近所の人たちと楽しそうに会話をしている。

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長年、ずっと理想としてきたオフ会というか懇親会というのは、まさにこのような場だったんですよね。

参加する人全員がフラットに、年齢や性別、肩書や所属なども一切すべてが関係ない世界観の実現。

それぞれに、お互いを対等な存在だと認識し合い、相手の話に対して真摯に耳を傾け、相手の関心事に関心を寄せて常に相手や場に対して敬意を払うこと。

とはいえ、安易に同調しすぎるわけでもない。

そんなあり方を実現できている場というのは、言葉にするととても簡単なようにも思えるけれど、それが現実の空間として実現しているのは、本当に毎年奇跡のようだなと思います。

小さくても着実に、そのような現実が世界に結実していることのありがたさ、です。

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このような空間を、言葉だけだったり、デモのような運動のイデオロギーとして掲げることだったりする人たちは多くても、それを実際に実現させようとする人はなかなかいない。

でも、そうやって言葉やデモで繰り返すような形だと、他者に対して文句を言っているだけにもなりかねないわけですよね。

昨日のトークセッションの中におけるホットワードでもありましたが、「誰か他人のせいにしない。自分(たち)で迎えに行く。」ということが、昨日のイベント自体においても実際に起きていたなあと思います。しっかりと確かな手触り感と共に、です。

ひとりひとりの穏やかな優しさと、その背後に静かに、でもものすごく強い意志をひとりひとりが持ち合わせてくれているからこそ、あの空間が実現していることがなんだかヒシヒシと伝わってきました。

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そして昨年も書きましたが、まさにこれが「故郷」や「家族」という感覚にも通じるなあと感じるんですよね。

それは、「出生地」としての故郷でもなければ、明確な「血の繋がり」のある家族でもない。

もっともっと、自分たちの内側にある、リアルに求める感覚や気持ちから立ちあらわれるような故郷や家族の姿です。

このような世界観を、オンライン・オフライン問わずWasei Salonでは実現していきたいとずっと思っています。


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この点、僕にとって今年読み終えて、良かった本のベスト3に凪良ゆうさんの『星を編む』が入ってくるのですが、以前もご紹介したように、ここでの「疑似家族」の定義、その捉え方が本当に素晴らしかったです。


改めてその一説をここでもご紹介しておくと、

血は水よりも濃く、つなげていくことの意味は大きい。その一方で、わたしたちのこの連帯をなんと呼べばいいのだろう。ぼんやりと、ゆるやかに、けれど確実につながっているわたしたちの「これ』を。よく言われるのは『疑似家族』だろう。けれどわたしたち自身のものを『疑似』と名づける、どんな権利が他人にあるのだろうか。


もちろん「家族」という言葉が仰々しく感じられたり、重たかったら「親戚」や「ご近所さん」でもいい。

何か法的だったり形式的だったり、そんな客観的に他者から認定されるような形でうまれる「つながり」に甘んじるのではなく、実質的で本質的な、そして自分たち一人ひとりの強い意志によって生まれてくる、いや立ち上がらせていくつながりとしての、家族や親戚、ご近所関係を作り出していきたいなと僕は思います。

たとえそれが、社会からは「擬似」だの「偽物」だのと笑われても、一向に構わないから。

これだけは、決してAIには実現できないことだなあと思っています。

ひとりひとり、生身の質量ある人間がその意志を持って一つの場に集わないと、そこには決して立ちあらわれてきてはくれないもの。

どれだけ高性能な半導体やスーパーコンピュータでも、決してつくりだすことができない。

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あとこれは完全に余談なんですが、先日Voicyで配信させてもらった有料配信インタビューの中で、タオさんが最後に聞いてくださった質問が、いまでもとても強く印象に残っています。

「鳥井さんは、今死んでしまっても後悔しないですか?」という質問だったのですが、そのときの自分の答えに、自分でも結構びっくりしました。

「死んでも後悔はない。ここまで続けてきたら、みんなが引き継いでくれると思うから」と。

それは実際問題そうであるかどうかは別として、そういう実感や確信をもって味わえることが幸福感なんだと、質問に答えながら考えていました。「それが貢献感である」と言い換えても良いのかもしれない。

「霊的成長は『つなげておいたから』という感覚だ」という内田樹さんの言葉を、以前もこのブログでもご紹介したことがありますが、ここに幸福感の秘密みたいなものがあるんだろうなあと僕は思います。

まさに、今度読書会を開催する、養老孟司さんの『人生の壁』の話にもつながる。

決して、人数などの規模感や売上が大きく拡大するような年ではなかったけれども、またひとつ、深く根を張り、広がっていく感覚を得られることができた年になったなあと思います。

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ここまで来たら、何年かかったとしても構わないから、必ず僕らが思い描く理想的な中間共同体をつくっていきたいなあと思います。

今までにはない、本当の意味で自分たちが欲しているコミュニティをつくりだしていきたい。

そんなことを昨日のイベントの最後、みなさんがとても満足そうに帰られていく様子を見ながら決意を新たにしました。

伝統を大切にしながらも、古いものだけに固執せず、新しいものごとにも果敢にチャレンジをしていき、自分たちが次の時代に本当に必要だと感じるものを、丁寧につくりだしていきたい。

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その結果として、これまでにないものが出来上がるかもしれないし、そうじゃないかもしれない。

でも、何ができても、自分のせいだし、何かありがたいことは、おかげさま。そうやって挑戦し続けていれば、求めていたものとは違ったというような、不平不満はきっと出てこないよなあと思います。

求めている物自体が、最初から何かは明確に存在しないのだから。

そうやって試行錯誤をしている中で、遠い未来から振り返ったときには「僕らが欲しかったのはこういうコミュニティだったんだ、今も問題は山積みだけれども笑」感じられるはずです。

その境地をこれからも目指していきたいなあと思います。

今週末は、関西での忘年会イベントも企画されている。

こちらも、本当にとっても楽しみにしています。

https://wasei.salon/events/b9cc11327512

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。