トークンエコノミーやweb3のような新しい概念を出てきて、それにまつわる技術やサービスが出てくると、一般的に多くの人はそのダメな部分や危険な部分を指摘しがちです。
でも当然、それは誰にでも見つけられる部分です。生まれたての子どもを見て、社会に生きるうえで足りないものを指摘するのは誰でも簡単にできてしまうのと、同じこと。
本来、ダメな点や脆弱な部分を見つけ出したうえで、その新しい可能性と一体どのように向き合っていくのかが、僕らに問われている部分でもあるはずです。
ーーー
だから、健全な挑戦心を身に着けているひとは、悪いところよりもむしろ、良いところのほうを必死で見つけようとする。
いま自分の目の前にある新しい可能性が、世の中に広く浸透していくと一体何がどのように変化していくのか、そして自分たちの生活にどんな変化をたらすのか。そんなポジティブな面に、光を当てようとするわけですよね。
ただ、ここで注意が必要だなと思うのは、そのときに多くの場合盲目的に開き直ってしまう挙動に出てしまうことです。
具体的には、少しでも可能性を見出すと、それだけを信じたいがために全肯定に値する技術であると自分自身を騙そうとし始める。
多少の違和感があっても、そこには目を瞑ってしまうようになるわけですよね。
「これには意味があるんだ」って思いたいがために、必要以上に肯定的な態度を示してしまうわけです。
それは自分の中に存在する認知的不協和を解消したいわけだから、ある意味では仕方のないことだと思います。
ーーー
たとえば、NFTやトークンのようなものを触ると、株式や新しい金銭的価値の可能性、贈与や布施の新しい形式であって、自分はいま新しいものに投資をしていて、更に利他的な良い行いまでしているんだという気分になってくる。
それは実際に触ったことがある人ならきっと誰もが感じるところでしょうし、その認識も決して間違ってはいないとは思います。
ただ、その肯定する感覚ばかりをかき集めてきて自分のイデオロギーを強める方向に振り切ってしまうのは、あまり望ましい行為とは言えません。
いつも、本当にここが難しいポイントだなあと思います。
いいところばかりに目を向けて、盲目的になっていても仕方ない。
それはそれで、完全に対象を批判していることと一緒です。行き過ぎた肯定は、行き過ぎた批判とほぼ同義です。
ーーーー
じゃあ一体僕らは、どのようにそのような感覚と向き合えばいいのか。
まず、新しいものと向き合ったときに安易に批判をしないこと。
そして、良いところを見つけて喜ぶ自分自身を自分自身で歓迎しつつも、同時にそれを強く疑い、問い続ける自分を存在させることも本当に大事だなあと。
漫画『バガボンド』の中に出てくる「引け目」の話とまったく一緒です。
過去に何度も引用してきましたが、ここでも再び引用しておきます。
引け目。それ自体は心に生じた小さな波にすぎぬ。不安の方へ振れれば心は閉じる。見まいとして固く閉じた心の中では、不安はやすやすと恐怖にかわり敵意へと育つ。その逆も厄介だ。崇拝する、同化したがる。寄りかかって、執着のできあがり。目も心も開いているようで閉じているのと同じ。真ん中がいちばんいい。
ーーー
トークンエコノミーの話で言えば、そのトークンを扱って贈与や不施を行う気持ちよさに対して、同時に自分自身が自分自身に対して気持ち悪がる態度みたいなものが本当に大事になってくる。
それを完全に無視してしまった人たちが集っている集団を客観的に眺めたときに、そこにカルト宗教的な危うさを感じ取ってしまうわけですから。
この一連の仕組みをちゃんと理解してれば、ひとり静かに集団や空気に流されず、ふと立ち止まることもできる。
たとえ前進し続けると決めていたとしても、ふと一瞬だけでも立ち止まることができると、世の中の見え方は本当にガラッと変わってきます。
「踊る阿呆に見る阿呆 同じ阿呆なら踊らな損損」という言葉における、ただの踊る阿呆にもならず、ただの見る阿呆にもならず、踊りながらも、それを同時に見て呆れている自分の目を持てるかどうか。
それが、世阿弥の語る「離見の見」 みたいな話にもつながるんだろうなあと思っています。
ーーー
ここで話は少しそれるのですが、昨日NHKオンデマンドで観た「こころの時代~宗教・人生~」の牧師・平良愛香さんの回がすごくおもしろかったです。
日本ではじめて、自らがゲイであるとカミングアウトして牧師になった方のドキュメンタリーです。
キリスト教信者である自分と、そのキリスト教が聖書の中で禁じているようにも読める「同性愛者」である自分の葛藤を非常に丁寧に言語化しながら、インタビューに答えられていました。
詳しくはぜひ番組を観て欲しいのですが、ひとつひとつの言葉のなかに、自分の中でしっかりと考え抜いたという実感みたいなものがよく伝わってくるものがありました。もちろん、問い続ける姿勢を今も持ち続けていることが、とてもよく伝わってきて本当に素晴らしかった。
特に僕が印象に残っているのは、自分が性的マイノリティであると同時に、自分とは違うマイノリティ、たとえば「障害」を持っている方々に対して、自分はマジョリティとして何かしらの加害を与えている存在なのかもしれないと自問自答しているシーンはとても印象的でした。
改めて、置かれた環境が人を育てるんだなあと、本当に強く思わされます。ご本人は、それが自分にかけられた十字架だったんだと語っておられましたが、本当にそう思います。もちろん、それはとてもポジティブな意味合いにおいて、です。
世間が当たり前だと思っていることを疑える、そんな目を持つこと。自らの立場を決してひとつに限定しないこと。それが問い続けるということなのだと思います。
ーーー
じゃあ、どうすれば、そのような一つの態度にとらわれない生き方が可能となるのか。
きっとここで大切なことは、「人間は必ず意味を見出したくなってしまう生き物である」そんな人間の習性に対してハッキリと自覚することなのだと思います。
たとえそれが何であれ、目の前に存在する出来事には「必ず意味があると思いたい」という無意識の欲求のようなものが、人間の中には必ず存在する。
だから、どれだけそれがアクロバティックなロジックでさえも、そこに意味を見出すためだったら採用してしまいたくなるのが、人間です。
だとしたら、そうならないためにも「意味自体を無理やり見出そうとしない」という態度がめちゃくちゃ重要なことだと思います。
過去に何度もこのブログの中でも語ってきた「わからないことをわからないままにしておくこと」や「複雑なことを複雑なまま理解すること」の重要性みたいな話にもつながる部分だと思います。
ーーー
この点、僕は最近、ずっと村上春樹の長編小説作品のオーディオブックを聴き続けているため、村上春樹作品は一体何が主題なのか、ということをよく考えています。
先日もご紹介した『村上春樹にご用心』という本の中で内田樹さんがとても膝を打つような話が書かれてありました。
内田さんは、村上春樹さんは不条理文学の系譜に属し、「この世には、意味もなく邪悪なものが存在する」ということを繰り返し読者に伝えてくれていると書かれています。
以下で本書から少し引用してみたいと思います。
私たちはたいていの場合、原因と結果を取り違える。
異界からの理解不能のメッセージは、「僕」の住む人間たちの世界に起きている不条理な事件を説明する「鍵」であるに違いない。私はそう思い込んで、物語を読んでいた。どうして、そんなふうに信じ込んでしまったのだろう。どうして、意味の分からないメッセージには「意味がない」という可能性を吟味しようとしなかったのだろう。
それは私たちの精神が「意味がない」ことに耐えられないからである。私たちは「意味がないように見えることにも、必ず隠された意味がある」と思い込む。私たちが「オカルト」にすがりつくのはそのせいだ。一見意味がないように見えることにも「実は隠された意味がある」と言ってもらうと、私たちは安心する。だって、私たちがいちばん聞きたくないのは、「無意味なものには意味がない」という言葉だからである。
内田さんは、これらの物語を逆向きに読むとき、はじめてその意味が見えてくると語ります。村上春樹さんの物語はすべて「この世には、意味もなく邪悪なものが存在する」ということを執拗に語っているのである、と。
つまり、村上春樹作品はすぐに意味を見出してしまうことに対して、留保する姿勢のようなものを、僕らに教えてくれているんだろうなあと。
実際、このように「意味」を留保できるかどうかで人生のあり方は本当にガラッと変わってくる。それは善悪や、良し悪しを超えたところにあるまったく別文脈の価値が見出される。
そして、それは今の時代においては本当に重要な視点です。
ーーー
最後に、このあたりの感覚は説明や論理だけで理解できることではなくて、どちらかといえば身体感覚において理解することだと思います。
なぜなら、説明や論理は、どうしても必然的に「意味」や「有用性」を導き出してしまうから。
だからこそ、これは「長編小説」として描かれる主題でもある。他者の架空の人生という疑似体験を通して、強く論理を超えたところで疑似体験が可能となるフォーマットを必要とする。村上春樹作品が、世界中で愛されている理由がまた一つなんだか腑に落ちたような気がしています。
なにはともあれ、常に引け目のようなものを自覚しつつ、全力で体重を乗せつつも、その自分自身を疑う態度、そして目の前に立ちあらわれてくる現実に対して、すぐに意味を見出そうとしないこと、そんなことをこれからも大事にしていきたいです。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。