先日、Wasei Salonの中で開催されていた読書会の後半のフリートーク部分で、「帰りたい」という漠然とした感覚があるという話に、参加者の大半が賛同していて、その話がすごくおもしろかったです。

https://wasei.salon/events/574d04d1f329

もちろん、僕の中にも明確に存在する感覚なので、その話を聴いていて、とてもよくわかるなあと。

「家にいるのに、帰りたい」と感じるときって、誰もが一度は経験したことがあるはず。

それは地元や実家とか具体的な帰る場所でもなく、何か漠然とした「私が帰る場所」に対する憧憬のようなもの。

それはきっと、ルソーの原初状態みたいな話で「自然に帰れ」みたいな話なんかにもつながってくるんだと思います。

今日は、この「帰りたい」という感覚とは何か、もう少し僕なりに深堀りしてみたい。

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この感覚って、いま流行りの「居場所が欲しい」という感覚にもつながなあと感じています。

もっと遡ると、漠然と「ちゃんとしたい」と感じる感覚なんかにもつながるのだろうなあと思っています。

これは以前もご紹介したことのある禅僧・南直哉さんの『「悟り」は開けない』という本に関連する内容があり、とてもハッとした部分だったので、少し引用してみたいと思います。

このところ、どちらかと言うと若い女性たちから聞くセリフに、「ちゃんとする」というものがあります。不思議なのは、そう言う彼女たちは「ちゃんと」働いていて、「真面目に」暮らしている人がほとんどです。
(中略)
同じようによく聞くのは、「自分には居場所がない」「居場所が欲しい」というフレーズです。「居場所」とは、もちろん住居のことではありません。自分が安心していられるところ、その存在が肯定されるような人間関係の中にいることを言っているのだと思います。
私は「ちゃんとしたい」と言う人は、この「居場所」に不安があるのではないかと思います。


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南さんが書かれている通り、現代人はこの欠落感を訴えるひとが、本当に多いなあと思います。

それはきっと逆説的ではあるんですが「物が溢れ返った時代になった証」でもあるのでしょうね。

もので満たされていることによって、余計にこの精神面の欠落感のようなものが庶民の間でも目立つようになったんだと思います。

一昔前だったら、そんな欠落感よりもまずは物質的な豊かさが優先で、「今日は明日よりも良くなる!」ということを信じて、馬車馬のように働き「三種の神器」を手に入れて、家族でハワイ旅行なんかに行くために、純粋無垢に仕事に専念することができた。

ある意味で、物質的な欠落感が、この精神的な欠落感を隠してくれていたわけですよね。

でも、何でも当たり前のように手に入る時代になって、生きるために必要な道具、その欠落感はサブスクも含めすべて埋められたがゆえに、この精神としての「欠落」が余計に感じ取ることができるようになってしまった。

だから、その欠落を埋めようとしてサービス提供者側も必死になってその欠落感を埋めるサービスを提供しようとしています。

それがコミュニティの時代でもあり、さらには再びの宗教の時代だと叫ばれる理由でもあるのだと理解しています。

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で、大前提として、提供する側も提供される側も「明確な欠落感なんだから、これは埋めることが可能だ」と思い込んでいる。

でも、果たして本当にそうなのでしょうか。

また、冒頭にお話した「帰りたい」と感じることも、私が帰るべき場所が存在すると思っているということですよね、ここではないどこかに。

どちらも「心にポッカリと空いた穴」みたいな表現をするわけですし、人が穴と表現するとき、それは埋められることが前提である、欠落感を指すわけです。

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で、僕もご多分に漏れず、以前このブログの中に「所を得ない」感覚の話を書いたことがあります。

具体的には、どこを探しても自分の所を得られるような場所は存在しなかった、だから自分でその「ところを得る感覚」自体、つまり自らの居場所を手づくりするしかない、と。


でも、その話っていうのは、今考えると半分は正解で半分は間違っているのかもしれないと思い始めています。

本当に、追求してみるべき方向性というのは「居場所」自体を断念する生き方なのかもしれないなあと。

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このあたりのお話は、南直哉さんのお話が非常にわかりやすかったので、再度本書から引用してみたいと思います。

私は「居場所」を断念する生き方もあると思います。それは結局、我々は「終の棲家」を得られず、とりあえずの「仮住まい」を繰り返しながら生きていくのだと、覚悟を決めるということです。なぜなら、「ありのまま」でいられるところを「居場所」と言うなら、この「ありのまま」というアイデアが幻想だからです。


これは本当にそう思います。

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で、ここからさらにおもしろくなってくるのは、仏教はこの「居場所」のほうではなく、その居場所を求める「自己」や「私」のほうを解体することを主眼に置いている、という話です。

再度、先ほどの続きから引用してみたいと思います。

この「居場所」への欲望こそが、人間の人間たるゆえんの、根源的な欲望です。仏教はこれを断念せよと言うのです。問題は断念の仕方です。普通は「居場所」を求めないようにする、というのが断念でしょう。ところが、仏教は「居場所」ではなく、求める「自分」を消せばよいと考えるのです。

「居場所」を求めるのは、「ありのまま」の自分に意味と価値があると思うからです。ならば、まずその「思い込み」を解除してしまったらどうか。自分の人生など、所詮大した問題ではない。ならば、どこにいたって同じことです。


まさにこの、居場所を断念し、その断念の仕方自体を自己の解体をする方向に求めることが、仏教における諸法無我や諸行無常の話なんかにもつながっていく。

つまり、ありのままの自分に意味と価値があると思うこと自体が幻想にすぎない、と。

それは、いつもこのブログに書き続けている「変わらない自分」を想定し、それに固執してしまうから生まれてくる誤解みたいなものでもあるんだろうなあと。

その「変わらない私」が求める幻想が、現代人の場合は「ちゃんとしたい、居場所が欲しい、帰りたい」という漠然とした欲求に向かうのだと思います。

それは決してネガティブなことではなくて「意識」のひとつのクセというか、意識の構造上必ず行き着いてしまう行き止まりみたいなものであって、今はその前提から疑う必要があるんだろうなあと。

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もちろん、「帰りたい」と願った場合に、本当に探し求めれば「心の安寧」みたいなものは、瞬間的には訪れることもあります。

というか、それが瞬間的にでも訪れてしまうからからこそ我々はその淡い記憶を頼りに「帰りたい」と願ってしまうわけですよね。

それは赤子のときに母の腕に抱かれていた「記憶」のようなものでもあって、誰もが確かに実感したもの。

あったものだからこそ求め続けるし、それをどこまでもいつまでも探し求めてしまう。

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で、更に厄介なことは実際かなり似たものは見つかります。

いまやっと「家族」をつくり、子どもが生まれ、私の帰る場所がみつかった!整った!と思っている人も多いはずで、それ自体は本当に素晴らしいことなんだけれども、とはいえ、一方で、それもまたかりそめに過ぎないわけですから。

その関係性さえも、日々刻々と変化していくもの。極端な話、どちらかが必ず先にこの世を去る定めにあることは変えようのない真実です。

だからこそ、それもいつかは壊れてしまう幻想なんですよね。決して確かなものではない。

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ここで僕は決して「そんなもんは幻想なんだぞ!」といじわるを言いたいわけでもなく、もちろん「幻想で続かないんだから、そんなものは大事にしなくていい」と言いたいわけではなく、むしろ、だからこそ、いまそれを目一杯大事にする必要があるのだと思います。

逆説的なのだけれども、その大事にすることはそれが幻想で仮初だと理解しているからこそ、その1回性や、決して普遍に続くことではないことを理解したうえで、大事にできるんだと思うのです。

逆にいうと、ここで、一度私が獲得したものや見つけた居場所、帰る場所は一生存在していくれる、つまり私に「所有」されると思うから、それが苦しみの原因にもなる。

それらは「所有」なんかはされていない。今この瞬間も、刻々と移り変わり続けていて「捉えた!」と思っているその瞬間から、形はすでに変容していて、溶けるアイスみたいに自らの手の中からドンドンとこぼれ落ちていく。

私自身も、周囲の人々も環境もすべてはずっと変化していて、ありとあらゆる変数が存在するんだから、それは当然のことです。

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で、僕は、今日語ってきたような内容を、本当の意味で理解しているひとたちが集まる場をつくりたい。

変な言い方ですが、このことを理解している人たちが集まっている意味合いとしての「集合場所≒居場所づくり」をしていきたい。

それが本当の意味で居場所を求めないという「居場所」になるんじゃないのかなあと思うから、です。

それが、今日の結論です。

ものすごく抽象的な話をしてしまっているし、逆説的な表現が多かったから、ちゃんと伝わっているかどうか不安なんだけれども、でもそんな「居場所を求めない生き方を実践する」がWasei Salonの目指す「居場所そのもの」なんだろうなあと、漠然と感じています。

結局は一周まわって、いつもと変わらない話をしてしまっている気もしますが、いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。