読書の向き合い方って、本当にひとそれぞれだなあとよく思います。
僕がこれまで出会ってきた生粋の読書好きな方々は、明らかに読書を目的としながら、本を読んでいる印象です。
生まれながらにして本を読むのが大好きで、本に対していつだって夢中になり、本を読むことそれ自体に喜びがある感じ。
「本を読むために生まれてきた」みたいな感覚を語る人も少なくないなと。彼らを客観的にみていても本当にそう思わされます。
僕も、本を読むこと自体は好きですが、体感としてはまったくそうじゃない。
僕が本格的に本を読み始めたのは、ハタチを過ぎたころからだし、読書それ自体が好きかと問われれば、たぶんその答えは、彼らと比べた場合においては明らかに「NO」だなと思わされる。
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そうすると今度は、読書は目的ではなく、あくまで手段だ、という話になってきます。
つまり、何か明確に個人の叶えたい夢や野望があって、そのためのノウハウやシステムを理解するために、先人たちの知恵を吸収するために、本を読むんだと。
経営者で読書家の方に多いのは、こちらのタイプだと思います。
そして、一時期までは、自分もそちらのタイプだと思っていたフシがあります。
ただ、30歳に入ったあたりで、それもそれでなんだか全然違うなと思い始めました。理由はうまく説明できないのですが、そうやって読む本のつまらなさ、みたいなものに気づいてしまったんでしょうね。
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このときに、自らの行き場みたいなものを失った感覚があって、結構ハッキリと絶望を味わったように思います。
養老孟司さんが書かれた本を片っ端から読み漁りはじめたのも、丁度それぐらいのときだったと記憶しています。
なんだか、自分が読書に対して求めている感覚に近いものを、うまく言語化してくれていることが多いなあと、漠然と思っていたからです。
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そして先日もご紹介した『生きるとはどういうことか』という本を読んでいたとき、とても腑に落ちる「読書」に関するお話が書かれていました。
それが今日のタイトルにもあるように「生きるついでに、本を読む。」というスタンスです。
養老さんは、歩きながら本を読むことが多く、その理由について語られていました。
以下、本書から少しだけ引用してみたいと思います。
なぜ「歩きながら、本を読む」のか。読書にひたすら専心するためである。でも歩いてるじゃないか、そのどこが「専念」か。
そこの説明がむずかしい。逆にいえば、「静かに座って読書する」ことが、私には信じられないのである。そんなことは、私にはできない。それをやると、逆に気が散ってしまう。そもそも私は「静かに座って」いられない。体が動き出してしまう。講演のときは、演壇上を歩き回る。貧乏ゆすりは長年の癖である。
世に読書家は多い。その人たちにとって読書は、おそらく自己完結的な行為なのであろう。つまり、ふつうは本を読むこと自体を目的として、本を読むのだと思う。私はそれができない。だから「なにかをするついでに、本を読む」ことになる。
(中略)
生きるために本を読む。それなら高級だが、私の場合は、どうも違うように思う。私は「生きているついでに、本を読む」のである。本はそれにはたいへん向いている。
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「生きるついでに、本を読む。」本当にこれに尽きます。
ものすごく絶妙な感覚を、本当に非常に上手に言葉にしてもらったなあという感覚です。たぶん、この曖昧な感覚は、他の表現では言葉にならない。
先日書いたブログの中で『ノルウェイの森』や『海辺のカフカ』を歩きながらじゃないと、読めないという話をしたばかりですが、それはまさにこの感覚なんですよね。
僕自信の読書の半数以上がオーディオブックが中心なのも、それが理由です。
文字通り、本当に歩きながらじゃないと、本が読めない(聴けない)のです。
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さて、ここで話が少しそれてくるのですが、最近、村上春樹さんの小説を聴きつつ(いまは『1Q84』に入りました)同時並行的に、その制作秘話やドキュメンタリー部分も改めて知りたくて『職業としての小説家』というあの有名な本のオーディオブックも、聞き返しています。
この本も、何度聴いてもおもしろい。
この本の中で、村上春樹さんが小説家になりたいと願う人に向けた話の中で「たくさんの脈絡のない記憶、そんなガラクタを集めて、キャビネットの中にしまっておくといい」というお話を書いていました。
そして、小説を書く際におけるそのガラクタの扱い方について、誰もが知る映画『E.T.』でわかりやすく説明してくれる部分が非常にわかりやすかった。
以下、本書から少し引用してみたいと思います。
スティーブン・スピルバーグの作った『E.T.』の中でE.T.が物置のがらくたをひっかき集めて、それで即席の通信装置を作ってしまうシーンがあります。覚えていますか? 雨傘だとか電気スタンドだとか食器だとかレコード・プレーヤーだとか、ずっと昔見たきりなので詳しいことは忘れたけど、ありあわせの家庭用品を適当に組み合わせて、ささっとこしらえてしまう。即席とはいっても、何千光年も離れた母星と連絡をとれる本格的な通信機です。映画館であのシーンを見ていて僕は感心してしまったんですが、優れた小説というのはきっとああいう風にしてできるんでしょうね。材料そのものの質はそれほど大事ではない。何よりそこになくてはならないのは「マジック」なのです。
(中略)
いくらマジックを使うといっても、何もないところから実体を作り出すことはできません。E.T.がひょっこりやってきて、「悪いんだけど、君の物置の中のものをいくつか使わせてくれないかな」と言ったときに、「いいとも。なんでも好きに使ってくれ」とさっと扉を開けて見せられるような、「がらくた」の在庫を常備しておく必要があります。
このマジックの部分は、本当に膝を打つお話ですよね。
最近、LLACトークンのコミュニティ内でも話題になっていて、うむ子さんが丁寧に解説されていた「ブリコラージュ」の発想にも、きっとつながる感覚のように思います。
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ここで、読書の話に戻すと、読書が目的のひとはそのがらくたにこそ心奪われているから、それを並べて、ガラスケースに入れて、キレイに飾って陳列し、毎日それを眺めているイメージ。
でも僕は、そんなコレクターでもマニアでもない。キャビネットの中にしまわれているガラクタに対して、特段興味があるわけでもない。
一方で、読書が手段のひとは、明確な「問い」や解決したい「課題」が先にある。ガラクタはあくまでツールであり、明確に最初から収まる場所が決まっている、そんな「部品」を探している感覚なんです。
どちらも決して間違っているわけではない。ただ、僕はどちらもなんだか違う感じがした。
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僕は、どちらかといえば「生きるついでに本を読んでいたら、なんだか集まっちゃった」という感じに近い。
強いて言えば、先日の内田樹さんの「人間的秩序が保たれるための仕事」みたいな話において、「だったら、俺がやりますよ!」と機嫌よく手を上げて、そこで何かをつくる必要に迫られる。そのときに、ガラクタの中からいろいろと引っ張り出してきて、そこに立ちあらわれる「魔法」自体に興味があるんだ、そんな感じです。(非常にわかりにくい話で、ごめんなさい)
具体的には、トークンエコノミーの可能性や革新性の話についてブログを書いている最中に、ついつい思い出して引っ張り出してきたくなる知識や自らの実体験、そんながらくたを集めたくて、本を読んでいます。
そして、そこから立ち現れるマジック的な感覚を本当に楽しみにしている。
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つまりまとめると、目的がないわけでもない。手段にしすぎるわけではない。
それが僕の思う、まさに「生きるついでに、本を読む」という感覚なんです。養老さんとは少し趣旨が違うかもしれないですが、僕はそう感じています。
今日は、この部分がうまく伝わると本当に嬉しいのだけれど、いかがでしょうか。
で、「魔法」といえば、今だとすっかりと『葬送のフリーレン』だと思うんだけれども、あの漫画も、なんだか似たような主題を描いているなあと思わされます。
具体的には、魔王や魔族を討伐するために磨かれた「魔法」は、手段としての魔法。キャラクターで言えばデンケンあたりです。
一方で、魔法の中の魔法を、極めることも同時に描かれている。それはキャラクターで言えば、ゼーリエみたいな存在です。
でも、そのどちらでもない。生きるついでに、そして旅をするついでに、本を読む。魔法を集める。しかもなんの役に立つのかもわからない、くだらないガラクタのような魔法を。
なんだか、あれこそまさに目的と手段の「あわい」みたいな物語だなあと思います。
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でも、この観点からすると、読書は単に知識を吸収する行為ではなく、人生を豊かにするための一つの手法であるということも、ハッキリとしてくるのかなあと。
うまくいえないですが、そんなことを考えている今日このごろです。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話何かしらの参考となっていたら幸いです。