日本人が「諸行無常」という感覚をベースにしているがゆえに、自然と生まれてくるシニカルな感覚、それがきっと「やむを得ない」という感覚です。

人間の利己心に基づく意識中心の世界が、行き着くところまで行き着くと、「これらがすべてなくなったときに、それでもこの世(国)に残るものは何か」と自分達の出自を消去法的に確認してみたくなる。

ここがゼロ地点だと思える、そんな場所。

一度そうやって日本(人の意識)が沈没する行方を探ってみたくなるのでしょう。

近年、小松左京の『日本沈没』がアニメでもドラマでも、リメイクされているのもきっと偶然ではないと思います。

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そして、そんな気運を察知したひとたちは人里離れた場所に移り住み、隠遁生活のようなことを始めていく。

できるかぎり身辺をミニマルにして、方丈記の鴨長明のように「観測者」としての役割を担おうとする。

つまり、違和感を感じとった日本人は、自らが障害として立ち塞がるのではなく、むしろ道を広く明け渡す方向へと舵を切り、無意識のうちに「やむを得ない」方向に進むようにと、仕向けてしまのではないでしょうか。

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今も、そうやって淡々と待ち続けているひとたちは間違いなく存在します。

そして、その数は年々着実に増えているようにも思う。

このような人々が増えてくると、予言の自己成就というか、「特に何もしない」という無作為及び「特に何も期待しない」という虚無感によって、誰かが何かを意図的に仕掛けたわけでもないにもかかわらず、必ずその「やむをえない」日は自然と訪れる。

そして、彼らを観測者として、その時の情景がまた次世代へと語り継がれてゆくのでしょう。

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日本人の無常感によって引き起こされるこの一連の流れは、果たして良いことなのかどうか、それは誰にもわかりません。

きっと良い悪いという次元ではなく、そのような周期をずっと繰り返してきたのが、この国であるということなのでしょう。

だからこそ『方丈記』の最後も、鴨長明本人の葛藤で終わる。あの葛藤まで含めて、すべてひとつながりでセットなのだということです。

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災害が多く島国であるという特異な風土によって、日本人のマインドセットとして完全にそれが根付いてしまっている以上、きっとこれからも変わることはありません。

少なくとも自分が生きている間は、このサイクルの真っ只中にいるのだと思います。

だとすれば、この日本人の無常感との付き合い方について、これからも生涯かけて問い続けていきたいと思う。

そんなことを考える今日このごろです。