私がより自分らしく振る舞える空間が「ここではないどこか」にひろがっている。
本当の私は、こんなところでこんなことをしている場合じゃない。目の前に広がる古臭い環境や古臭い価値観からは一刻もはやく解放されて、本当の私を手に入れなければならない、と。
それが若いひとを中心にありがちな人生に対する「焦り」だと思います。
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でも、その論理でいくと、いつまで経っても「こんなところにいる私」ではないと思い続けてしまうことになる。
たとえ、どこに行ったとしても、いつまで経っても心は満たされない。
改めてここで豊臣秀吉なんかの例を見るまでもなく、人間というのは「拡大方向」では決して満足できない生き物なのです。
日本が統一できたら世界へ、そして果ては宇宙まで目指すようになってしまう。
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だからこそ、どこかで矢印の向きを入れ替えて、現状を受け入れて、折り合いをつけていく必要も出てきます。
では、具体的にどうやって折り合いをつけていけばいいのでしょうか。
思うに、自分の暮らし自体がすでに大きな「学び」であり、日常のすべてがこの私のための用意された「修行」だと思えるかどうかが肝心なのだと思います。
この点、たとえば有名な禅僧・道元の逸話が非常にわかりやすい。
若いころの道元は、「本物の仏教を学びたい」という一心で、当時仏教の本場だった中国に決死の覚悟で渡ります。
そこで生まれて初めて出会った中国の由緒あるお寺の老僧に出会って、あれこれと尋ねてしまいます。
その老僧は「お寺の食事の準備があるからそろそろ帰らなければいけない」と語るのですが、「そんな食事の準備はあなたのような高僧がやるようなことではない」と道元は言い放ち、もっと話を聞かせてくれと引き留めようとします。
すると、「あなたは修行の何たるかをまるでわかっていない」と諭されてしまう。
そこで初めて道元は「生活のすべてが禅の修行である」ということを悟るのです。
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このように、本来、見方を変えれば生活におけるすべての事象が、私がこの人生を全うするために用意されたものだと思えるはずなのです。
「無駄な時間」なんて一切ないのだと。にも関わらず、私たちはそれらを蔑ろにしてしまう。
逆に言えば、どんな環境に行ってみても、「いまここ」から私が何かを学び取ろうとする意欲と姿勢がなければ、満足感なんていつまで経っても得られない。
外部の環境ではなく、私の受け止め方にすべてがかかっているわけですから。
だからこそ、本来「ここではないどこか」を思い描いて、焦りなんかを感じる必要なんてないはずなのです。
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それでも、「ここではないどこか」があると思ってしまうのは、「自分たちが今いる場所こそが、桃源郷なのだ!」と良い面ばかりを取り上げて、自分たちに注目を集めたい人たちの発信に惑わされてしまっているだけです。
画面越しのYouTuberやインフルエンサーのそのような発信に毎日右往左往させられて、目の前の自分の役割も満足に果たすことができず、いつも舐め腐った態度で不機嫌そうに仕事をしているひとと、
いつも機嫌良く、目の前のことから懸命に学び取ろうとする態度が溢れ出ているひとがいれば、
後者のひとに対して、ものすごく身近なところから、「あなたにこれをお願いしたい」という大きなチャンスが巡ってくることは間違いない。
まさに急がば回れ、です。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。
2021/10/29 11:43