先週末こんなツイートをしてみました。

成人を過ぎた大人同士が、他者に向かってうやうやしく「先生」と呼ぶことへの違和感って、きっとここにあるんだろうなあと思っています。

たとえどのような難題であれ、自分で考えることを放棄せず、他者に責任をなすりつけようとしないことが本当に大事なことだと感じます。

そのためには、平時から決して脅かし合うことなく、ひとりひとりがフラットな立場にたって、自己の責任で対話しながら自ら考えるための空間が必要になってくる。

この点、福沢諭吉が慶應義塾内で、先生を「先生」と呼ばせずに、生徒も先生も全員「君付け」で呼び合わせていたのは、本当にすごいことだなあと感じます。

儒教文化における負の側面を、当時から完全に見抜いていたということなのでしょう。

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この点、年配のおじさんたちが、若者や女性に対してうやうやしく「先生」と呼ぶときは、決まって「相手の視点を理解する気はない」という態度がにじみ出ているなあと感じます。

自分には、若いひとや女性の「正解」なんてわからないし、それをわかろうとしたり、学んだりする気も毛頭ない、と。

「先生」と呼ぶことで敬意を払っているように見せかけて、「俺が採用してやっているんだから、おまえが責任を取れよ。俺の顔に泥を塗ることだけは絶対にしてはくれるな」ということなのだろうなあと。

実際、僕も20代のころにそのような状況に何度か置かれたことがあり、それ以来、自分のことを「先生」と呼んで来るような現場には絶対に足を運ばないと強く心に決めました。

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だからこそ、いくつになってもこちらの見ている景色を理解しようとする態度で、同じ目線に立ってくれるひと、そのようなスタンスで寄り添ってくれる年配の方々は本当にかっこいいなあと感じます。

客観的に見ると「先生」と呼んでくる人たちのほうが礼儀正しく、なんだか他者を敬っているように見えてしまうけれど、実際のところは正反対なのです。

本当は「◯◯君、◯◯さん」と言って「僕にも教えて欲しい」と、同じ景色を眺めようとしてくれるひとたちのほうが、よっぽど敬意のある態度だなと感じます。

自分自身も、これから年齢を重ねていく中で、若いひとに対してそんな敬意を表することができる中年になっていきたいと強く思う。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。