「価格と価値」どちらも似たような言葉ではありますが、そこには明確な違いがあります。

それは、タイトルにもあるとおり「価格」は客観的なもので、「価値」は主観的なものであるということ。

たとえば、どれだけ私にとって価値があるものだとしても、極端な話、自分以外は誰も欲しがらなければ、それには一円の価格もつきません。

一方で、自分にとってはまったく価値がないと思うものであっても、自分以外の全員が欲しがるもの且つ供給量が少なければ、それには法外な価格がついたりします。

この点、投資家は価格のつくものにしか興味がないですし、田舎で自給自足のような暮らしをしているひとは価値のあるものしか興味がない。

そして、多くのひとは、この価格と価値の違いをなんとなく理解しつつも、いつもその狭間で右往左往しながら「他者の欲望」に振り回され続けています。

このふたつを峻別したうえで、両方を同時に知ろうとすることが本当に重要だなあと最近よく思います。今日はそんなお話を少しだけ。

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たとえば、僕は「時間に追われること」が大の苦手です。

常に時間には余裕をもって、時間に追われずに生きていたい。5分刻みのギリギリのスケジュールなど、たとえ年収が10億円になったとしても耐えられません。

一方で「なるべく移動はしたくない、文章を書かなくて済むならそれに越したことはない」というひともいるはずです。たとえ年収10億円もらったとしても、鳥井のような生活をしたくないというひとも必ず一定数はいるはずで。

このような価格と価値のズレは、実際に自ら体験してみないとわからないのです。自分がそれまでに触れてきたものによってしか、その審美眼は磨かれない。

自分もまさか「時間に追われる生活」がこれほどまでに自分にとってストレスだったなんて、自分で体験してみるまでは、まったく気がつきませんでした。

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話はちょっと逸れますが、「住まい」という拠点を捨て去り、無拠点生活を初めて東京と地方を行ったり来たりする生活が3年目に入りました。

これを繰り返していると、「価値」と「価格」の行ったり来たりを常に繰り返しているような感覚になってくるのです。

地方に行くと、誰も見向きもしない絶景にものすごく価値を感じさせられる瞬間があるし、こんなものに価値を感じるひとがいるんだなということも強く理解できる。申し訳ないけれど、僕にとっては無価値だなと思うものを、大事に大事に扱っている人たちもたくさんいる。

一方で、東京に戻ってくると、いま何に「価格」がついているのかを肌感覚で理解できるようになります。また、こちらも申し訳ないけれど、僕にとって無価値だなと思うものに、法外な価格が提示されていたりもします。

この行ったり来たりを繰り返すことで「価値」の多様さと「価格」の今が同時に理解できるようになると思うのです。

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日本の各地を巡っていた俳人・松尾芭蕉が「不易流行」という言葉を生み出したのも、今のような暮らしをしていると、とってもよく理解できる。

「価値」と「価格」の違いを理解し、どちらにも振り回されないような人生を送ること。これからの時代において改めて非常に重要なことになってくると思います。

参照:正解や真理を探求すればするほど「そんなものはない」と否定される現代において、私の拠りどころとは何か。 

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。