サロンのタイムラインには書いていましたが、1ヶ月ぐらい前に、映画『ルックバック』観てきました。

これだけSNSを中心に世間で話題になっている作品なので、今さら説明は不要だと思います。

映画を観終えたタイミングでは、本当に自分でもビックリするぐらい一ミリも刺さらなくて、一体何を観せられているのか、終始まったく理解できなかったというのが、僕の正直な感想です。

もちろん、決して映画がつまらなかったと批判したいわけじゃ一切なくて、喩えるなら、みんなが霞を美味しそうに食べてる世界に突然ひとり迷い込んだ気分になり、それ自体がめちゃくちゃおもしろいなあと思ったんですよね。

こういうときにこそ、個人的には一番テンションがあがり、大変興味深いなと感じる。だからそういう意味では本当におもしろかった。

そして、絶賛している他者の感想も積極的に聞きたくなります。

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で、この1ヶ月あまり、様々なひとたちの『ルックバック』の感想を見てきました。

そうすると、僕にはこの映画がまったく刺さらなくて、一方で世の中の決して少なくない人にこの物語が刺さったその理由みたいなものが、少しずつ見えてきた気がします。

今日はそんな理由と、そこから考えた「占いのようなコンテンツ」の話を改めて書いてみたいなと思います。

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まず、「この映画がおもしろかった!」と語るひとは、往々にして必ずセットで「自分の過去の話」をするなあとふと気づきました。

つまり、『ルックバック』というタイトルにあるとおり、途中から映画の内容を追うよりも、自分自身の過去を”ルックバック”していて、ソレをスクリーンに投影して、自分の過去のほうを観ているんですよね。

そして、僕はこの現象が非常におもしろいなと思ってしまいます。

一方、僕はずっと映画の内容だけを観続けていました。それがきっとまったく意味がわからなかった理由のひとつでもあるのだろうなあと。

喩えるなら、この作品が飲食店の料理だとしたら、お皿の上はあえて空いてある、空けてあるんです。

観客の過去を投影して、それを見せるために、です。

でも僕は、その仕掛けを見て、お皿の上には何も無いじゃないかと思ったわけです。きっとそのようなズレが原因だったんだろうなあと。

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このような、映画を観てもらい相手のなかにある「自分の思い出」を見せる、その呼び水となれる作品が、これからの時代には強いことは間違いない。

で、僕は、それが「占いみたいなコンテンツ」だなあと思います。

今日の本題はここからで、じゃあそんな占い型コンテンツとはなんぞや?という話です。

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たとえば、みんな大好き「しいたけ占い」は、まさにこれと似たようなことが起きているなあと思います。

(ちなみにここで「しいたけ占い」を例に出すのは、多くの方が知っているだろうということであり、基本的に人気がある占い系のコンテンツであれば何でも構いません。)

この点、全員が同じように「しいたけ占い」というコンテンツに触れているのに、それぞれが自分の星座だけの占いを見ているのが、占い系コンテンツの特徴です。

かつ、その内容から引き出される「自分の心当たりがある事柄」に執着をするのもまた、占い系コンテンツの特徴。

たとえ同じ星座の人間であっても、頭の中ではそれぞれに全く違う読み解き方をしていて、違う自己像をそこに投影しているんですよね。

逆に言えば、その余白が上手に用意されているもの、解釈の多様性が許される、誰の過去の後悔であっても、未来に投影できる読み方ができるコンテンツが、優れた占い型コンテンツの特徴です。

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もし、本来コンテンツそれ自体の中身がおもしろいなら「しいたけ占い」だって、他の星座の占いの「内容」も読むはずなんです。

コンテンツそれ自体がおもしろいとは、そういうこと。

でも、そんなふうに書かれていることをすべて精読しているのはきっと、同業者のほかの占い師さんぐらいであって、多くのひとは、ただ自らの星座だけを読み、読みながら自分の頭のなかに浮かんできた「心当たり」に、ひたすら執着をしているはずなんです。

そうすると、同じコンテンツに触れている者同士でもお互いの話がぜんぜん噛み合わなくなる。相手はすでに自分の空想、相手のお皿のうえに現れた、霞を食べている状態だから。

これが比喩としては正しいかわからないけれど、ひとりで内輪ネタで盛り上がってしまっているような状態です。他者にとっては、そこに取り付く島もない。

昨日の話にも紐づけると、まさにそうやって相手を「幽霊」みたいにしてしまうのが、占いコンテンツの特徴なわけですよね。

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さて、ここで改めて現代の問題点みたいなものを整理をしておくと、

「大きな物語」が終焉し、世の中が多様化・細分化する中で、それぞれがバラバラな物語やゲームを営んでいる。

そのため、バフとデバフが見事に食い違う。

あるひとのプレイしているゲームにとってはソレがバフであっても、またあるひとにとってはソレがデバフになり得る。

つまり、何か明確な物語を提供してしまうと、相手の足を踏むことにもつながりかねない。

だったら、そうじゃなくて、なるべく相手の中にある記憶を「ルックバック」させるようなギミックを散りばめたほうがいいわけです。

それぞれがソレを見て、ついつい想像してしまうその「心当たり」自体を楽しんでもらうこと。

懐メロなんかも、基本的にはこのような構造にあると思います。

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こうなってくると、「たしかに思い当たるところがある」という状態に持ち込んだもん勝ちです。

ただ、それは先ほども書いたように、他のひとの星座の物語に、まったくもって興味を持たないという状況をも作り出してしまいます。

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ただ、間違いなくこれからは、作品をきっかけにして相手のなかの過去をルックバックさせるコンテンツが急増し、かつ人気となり、お金も人も集まってくることは間違いない。

人が「おもしろい」とか「心地よい」とか、そのようなポジティブな感情を抱いてくれるものが、大きな物語が終焉してしまって多様化が進んでしまった以上、そうやって各人がそれぞれに振り返り、それぞれが全く別の過去を観ているという「行為」としてのコンセンサスしか取れなくなってくるから。

このように、往々にして占い型コンテンツは相手を幽霊にしてしまう。自分の物語の中に、閉じこもってしまうことを促す。過去に居着くことを、積極的に肯定してしまう。

個人的には、あまりそれが良いことだとは思えません。なんだか催眠術やハッピーカプセルなんかとも、とても良く似ているなあとどうしても思ってしまうからです。

確かに人間が求めている「状態」というのは、そのような脳内快楽物質が溢れている状態なのかもしれないけれど、アプローチとして、どこか違和感が残る気がしてしまうんですよね。

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ちなみにこれは完全に余談ですが、以前読んだ仲正昌樹さんの『<宗教化する>現代思想』という本の中に、以下のようなことが書かれてありました。

今日の話にも間接的につながる部分があると思うので、少し引用してみます。

学校のホームルームとか大学のゼミ、就職の面接、マスコミの街頭取材などで、「自分らしい生の意見」を言うようリクエストされて、いかにも「聴いたふうな台詞」を口にしてしまう〝優等生的な人〟がしばしばいるが、その手の人はいつの間にか、よく耳にしたり見たりする決まり文句(エクリチュール)を自分にとって最もしっくりする〝自分の生きた言葉〟(パロール)にしているのだろう。そういう人にとっての「生きた言葉」には、どこかにその雛形(エクリチュール)があるわけである。そういう〝素直な人〟が、何かのきっかけで「自分探し」を始めると、いかにも自分にとって懐かしい感じのする――つまり、どこかで聴いたことがあるような――言葉で語りかけて安心させてくれる宗教団体や政治運動体、占い師、カウンセラー等にはまりやすい。


僕は、まさにこのような類いの「危うさ」を漠然と感じ取っているのかもしれません。

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昔は、それでも「大きな物語」が勝手に先に進んでいくわけだから、時代遅れだのなんだの言われて、執着をすることを諦める人のほうが多かったわけだけれども、それがなくなった現代においては、いくらでも「過去の物語」に執着することが見過ごされるようになったことが、現代の特殊性なんだろうなあと。

そんな、ある種の開き直りもちゃんと優しく許容してくれる時代。

最近の懐メロブームなんかはまさにそうですよね。まるで「定番」に立ち返るように「やっぱり、これだよね」と言える空気が情勢されつつある。

でも結局それというのは、ドンドンとつくられた過去、美化された過去、当時の自分が本当はこう見たかった過去に変貌していく。

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もちろん、ひとは過去を振り返りながら、その思い出に浸りながら生きること、それは避けることはできないし、そしてそんな物語のなかに、人を癒やす力があることは間違いないわけです。そこは一切否定しません。

あと、そもそもそのような占い的な部分と、自らが新しく作り出して、提示している要素がパキッと分かれているわけではない。常にそれらはグラデーションです。

また作り手の意思関係なく、そこには受けての多くの「誤読」だって多分に含まれます。

夢みがちだったり、妄想にふけりがちだったりするひとほど、すぐに自分に都合の良い形で目の前のコンテンツを、自己をルックバックするために用いてしまいがち。

まったくそんなことが描かれていないのに、作品の中で風が吹けば、そこから桶屋が儲かるような連想ゲームを勝手に始めていく。

そして、そのような「誤読」される余白があることも、作品の魅力だったりもするから、本当に一概には言い難い。

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でもこのような現代の特殊性と構造をまるっと受け入れたうえで、それでも物語を新たに立ち上げて提示をしていくこと、その矜持を持つことは、なぜだか僕はとても大事だと感じるんですよね。

ちゃんと、お皿のうえに自分(たち)がおいしいと思うものを、のせて提供をすること。

それは、まったく見向きもされないかもしれない。なんなら、他人の足を踏んでいると怒られるかもしれない。

でも、それでも、その能動的な行為が大事だなと思います。

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繰り返しになりますが、いまは多くのひとに共感してもらえる、そして多くのお金も稼げる、多くの知名度を得ることもできるのは、お皿の上に霞をのせて、そこに自らの過去をなるべく見やすい形で投影してもらうことです。

その「白い背景」を提供するのが一番効率的で、間違いなく理にかなっている時代ではあるのだけれども、それでも、新たな物語を立ちあげていくことのほうに、僕は価値を見出していきたい。

このあたりは単純に好みの問題ですが、個人的にはそのようなものの方になぜか心が惹かれてしまうというお話でした。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。