パリオリンピックで大活躍したあとに、日本に帰ってきたあとの男子バスケ代表・河村勇輝選手の動画をYouTubeなんかで、時々ふと観てしまいます。

余韻としてなのか、なんとなく観てしまうんですよね。

自分の所属するチームの選手たちと合流をし、そしてチームのファンサービスの一環としてリングにボールが届かないような子どもたちと一緒になって、バスケットボールを教えているシーン。

https://youtu.be/fgsV88gr2M8?si=uNhP5Wvg3-NM2LlM 

それらを観ていると、なぜだか自然と泣けてくる。

別に泣く理由もないような明るいシーンばかりなのに、なぜかグッと来る。

そうすると「この感情は一体何なんだ…?」と思わされるわけですよね。

そしてふと気付いたのは、これは「無常感」なんじゃないかと。

この夏、ずっと僕は「無常感」に当てられていたのではないかと思ったので、今日はそんなお話を少しだけ。

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バスケットボールを観ていると自然と思い出すのが、自分自身が中高生の時代に、あのうだるような暑さの中、体育館で行われていた練習の風景です。

当時は、これが一生続くと思っていた。

「こんなことを一体いつまでやらされるんだ」と半ば苛立って、幼くもその練習に反発もしていたわけですが、でも終わってみれば本当にあっという間だったなあと思います。

ビックリするぐらい、あっけなく現役というものは終わっていく。

青春なんかもそうですよね。何の前触れもなく、突然幕が閉じる。ドラマや映画みたいに、そこに起承転結のようなものがちゃんと存在してくれているわけではない。

しかもそれは、あまりにも一瞬のできごとであって、それゆえに終わったあとでも、その終わったこと自体に気づかないままの場合のほうが多い。

そして、それから10年ぐらい時が経過して、やっと「あー、あのときに終わっていたんだ」とオリンピックみたいなものを観ながら、徐々に気付かされていくわけです。

それが僕にとっての今回のパリオリンピック男子バスケの一連の試合を観ながら感じていたことだったなあと思うし、その「無常感」みたいなものに泣けてくるということなんだろうなあと。

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この点、「自分の中にある初々しさに気づけないことが、初々しいということ」という伊集院光さんの言葉を過去にこのブログの中でも何度かご紹介したことがあります。

きっと、その「初々しさ」にあてられていたんだろうなあとも思います。

いつか終わってしまうことには、まったく意識を向けず、断固たる決意で、今を生きている、その真っ直ぐな初々しさ。

本人はその初々しさには一切気づいていない様子に、なんだかまた惹かれるわけですよね。

だから、変な話なんですが、自分が半分「幽霊」みたいな気分になるなあと。

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では、それは一体どういうことか?

たとえば、現役期間が「人生」そのものだとしたら、その現役の終わり、つまり人生を終えた人間が、現在懸命に生きている人間を上から観ている、そんな情景を頭の中で思い描いてしまいます。(実際画面越しで、上からですしね)

このときに、幽霊もきっと自分が死んでいることは気づかずに「無常感」や、文字通り念が残るという意味での「残念」という観念から、何度も何度も現世に現れるはずなんです。

以前も書いたように、代替わりが早く、その新陳代謝が早いのがスポーツの魅力であり、現役期間が本当に限られた一瞬だけしか存在しないから、誰もがそれを観ながら「幽霊」のような気分になれる。

つまり、その現役選手たちの様子を観ながら、擬似的に「死」を体験することができたり、「あの世から、この世を眺める」みたいなことを漠然と疑似体験することができるわけですよね。

もちろん、毎年の夏の甲子園なんて、その最たる番組だと思います。

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さて、ここで話は少しかわるのですが、この無常感について、最近読んでいた橋本治さんの『これで古典がよくわかる』という本の中に、とても興味深い話が書かれてありました。

以下は本書からの引用となります。

「無常感」の「無常」というのは、仏教の思想からきたもので、「常ということは無い」です。「いつまでも同じということはない」ーこれが「無常感」です。べつにどうってことのない話で、あたりまえです。でも、この「あたりまえ」に、ほんのちょっとなにかがくっつくと、ドキッとします。「いつまでも同じということはない。すべてのものには、いつか終わりがくる」と。ドキッとするでしょう?
毎日同じ生活をくりかえしていて、そこに「いつまでも同じということはない」なんてことを言われたって、「まアね」です。毎日同じ生活をくりかえしている人間は、毎日同じことをくりかえしているおかげで、少々のことにはびっくりしないだけの「鈍感さ」を獲得しています。(中略)ところが、そこに「いつかは終わりがくる」があると違います。そういう「昨日と同じ生活のくりかえし」が、終わってしまうわけですからね。


で、話はここから、鴨長明の『方丈記』の話へとつながっていきます。「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」というあの有名な一節の話です。

そして、『方丈記』がいかに優れた作品なのか、そしてその無常感を描いてくれている作品のあり方を丁寧に説明してくれているわけかのですが、そのあたりの話については、僕が説明してみても全く伝わらないと思うで、気になる方はぜひ本書を実際に手にとってみてください。

表紙はそれこそ拍子抜けするほどに可愛い絵柄なんですが、内容はかなり骨太で、本当に面白い本になっています。

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で、ここ最近も、この無常感みたいなものを感じる機会が、すごく多いなと。

たとえば、『攻殻機動隊』の素子は、自分が生きている限り(とは言い過ぎかもしれないけれど)あの攻殻機動隊の世界観が現実になるまで、僕はあの田中敦子さんの声で素子の声を聞き続けると、なぜか完全に信じ込んでいました。

素子というキャラクターはあの声で、これからも何度も何度もリメイクされて復活してくるんだろうなと。

また、松岡正剛さんもそうで、知の巨人はいつだってトークイベントでこれからも僕らに対して知の面白さ、編集の面白さを、あの風貌のまま、いつまでも語り続けてくれると思っていた。

でも、あっという間に突如として終わりがくる。そして、もう決してそれらを観ることはできない。

その無常感を、本当の意味で理解しないと、何か大事なものを見失い続けることになってしまうんだろうなあと、改めて思い始めてきたんですよね。

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また、これは唐突ではあるんですが、この無常感に関連して村上春樹さんの『ダンス・ダンス・ダンス』の中に、僕がなぜかとても印象に残っているセリフがあります。

10代の若い女の子が、作中の中で突如交通事故でなくなってしまうキャラクターに対して、なぜ生前、私はあのひとに対して冷たく接してしまったのかと、半ばなげやりに後悔しているところに、主人公の「僕」が意外にも突然叱り出すシーンです。

以下は本書からの引用です。

「人というものはあっけなく死んでしまうものだ。人の生命というのは君が考えているよりずっと脆いものなんだ。だから人は悔いの残らないように人と接するべきなんだ。公平に、できることなら誠実に。そういう努力をしないで、人が死んで簡単に泣いて後悔したりするような人間を僕は好まない。個人的に」


これからも繰り返されると思っている平凡な日常というものは、本当にものすごくあっけなく終りがやって来る。そこには何の前触れもない。

最近は、戦争関連の本やコンテンツを観ているから、なおさらそれを強く実感します。

そして、いつか、もし実際に自分たちが戦争を体験すれば、僕らもそれを痛いほどに体感するはずなんですよね。

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だからこそ、そのまえに気づきたい。気づいていきたい、想像していきたい。できることなら誠実に。その無常感を、「古典」という形において、先人たちがたくさんヒントを残していってくれているわけですから。

「古典なんて何の価値もない。役に立たないだから学校の授業からも外すべきだ」それはたしかに、その通りなのかもしれないです。

「 ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」なんて、ただの風景描写であり、ただの事実を昔ながらの言葉で説明されたに過ぎないわけですからね。

「だからなんだよ」って思って、当然なんです。

でも、鴨長明は、まず「河」を見て、「水」を見て、それから「あぶく」を見ているんだ、ということです。そのことによって、彼が既に学習して知っている「いつまでも同じということはない」という、仏教的な「無常感」の存在を見事に証明してくれている。

たったソレだけなんですが、『方丈記』の文章はそういう実証的かつ科学的な文章なんだと、橋本治さんは言います。

その文章の内容をあらかじめ知っていれば、「ふーん……」と読みながらも、その文章に隠されている「意味」を探し出そうとするはずなんですよね。

その「意味」を探し出そうとする重要性を、橋本治さんは本書の中で僕らに強く教えてくれている。

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そういう「意味」みたいなものを理解しようと努力をしないで、大切な人が死んだあとに、簡単に泣いて後悔したりするような人間を、僕は好まない。個人的に、です。

なんだか、最初の話からは大きく離れてしまいましたが、スポーツ観戦をする中で、自分自身がさめざめと泣く「幽霊」になっていることに気が付き、かつ、そこに「無常感」を発見したので、今日のブログにも書いてみました。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。