Wasei Salon運営しながら、いつも意識しているのは「お金に困っていないひと」に集まってもらうということです。

でも、それは決して「資産や給与としての数字が多い」ということではない。

そうじゃなくて、「足るを知る」とか「他人の欲望を、欲望しない」とか、そのような節度を、それぞれ個々人の基準によって健やかに持ち合わせているという意味です。

わかりやすいイメージとしては、いつも書いているような『千と千尋の神隠し』の中で、カオナシの手から溢れ出る砂金を一切欲しない、ちひろの姿なんですよね。

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たとえば、資産がゼロで給与の手取りが20万に満たなくても、お金に困っていないひとは世の中にはたくさんいます。

一方で資産が何十億円とあって、キャッシュフローも何億あろうと、お金に困っているひとはたくさんいる。というか、そういうひとのほうが世の中には多い。

「自分のお金に困っていない」という前提は、他者への敬意の第1歩目だと思うし、それが前提だからこそ共に助け合えるという部分も間違いなくある。

自分の財政状態に不安がないひとは、他者のニーズにも目を向けられる余裕があるわけですからね。「お先にどうぞ」と譲り合える。

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現代は、なんでもかんでも数字の尺度ではかられてしまう世の中であって、それで社会的地位も決まると思い込んでいる人があまりに多い。ゆえに数字ですべてが判断できると誤解されがち。

でも、そんな世界の中で僕がみなさんに持ち合わせていて欲しいのは、数字の尺度では決して判断することができない「精神性の豊かさ」のほうなんです。

だから、その基準はひとそれぞれであることは間違いないし、その基準によってお互いに見下さず、一方で嫉妬もしない。常にお互いが歓待する心を大切にすることが大事になる。

それがたとえ侘びしくとも、というか侘しさによって「歓待する心」が際立つからこそ、そのような共にいられる空間をつくりだすことができることが、とても大事だなあと思っています。まさに侘び寂び文化そのものです。

特に現実社会の中からは、ドンドンそのような空間が消え去ってしまっているわけでもあるわけですからね。

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さて、この話に関連してふと思い出したのは、最近読み終えて非常に感銘を受けた建築家・隈研吾さんの『日本の建築』という本です。

この本の中に書かれていた「建築のニューリッチとオールドリッチ」にまつわる「品の良し悪し」の話がとてもおもしろかった。

直接的には今日の話と関連する話ではないのですが、建築とコミュニティは切っても切り離せないものだと思うので、少し文脈が異なりますが、本書から少し引用してみたいと思います。

建築ほど、品がいい悪いという評価基準が、頻繁に用いられる世界はないかもしれない。
なぜなら、オールドリッチ「既得権益を持つ富裕層」がニューリッチ「成金」に対して浴びせかける形容詞として最も一般的なものが「品が悪い」だからである。そしてオールドリッチはそもそも建築を新たに建てる必要はなく、ニューリッチが、その新しく手に入れた富を手っ取り早く誇示するための手段が、建築という大げさなメディアなのである。すなわち、建築家としては自虐的な言い方になってしまうが、建築とは本質的に「成金」の産物以外のなにものでもない。


僕がこの部分を読んで一番驚いたのは、建築家の隈研吾さん自らが「建築とは本質的に『成金』の産物以外のなにものでもない」と言い放っていること。

これには結構、度肝抜かれました。

ご自身が全身全霊で取り組んでいる事柄に対して、「成金」の産物以外のなにものでもないというのは、なかなかに勇気がいることだと思います。

でも、実際に古今東西ありとあらゆる建築を見てきた、そして自らも実際につくりあげてきた隈研吾さんだからこそ、ここまではっきりと言い切れてしまうようなことでもあるんだろうなあと。

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で、さらに話がおもしろいのはここからであって、ニューリッチというのは、必ず金の話になる。その対立軸として「品がない」という言葉が頻繁に用いられる。一方で、関東は「品」に対してさらなるカウンターとして「粋」を重視したという話が、本書の中では語られているのです。

再び、本書から引用してみたいと思います。

この品をめぐる関東批判に対して、関東が提示した対抗的な新基準が「粋」であったと僕は感じる。粋は江戸時代、花柳界で生まれた美学であり、そもそも建築などという永続的な資産は無意味・無価値であり、「宵ごしの金は持たない」という反建築的なニヒリズムがそのベースにある。関東は建築ニヒリズムで、関西の「品のある建築」に対抗したのである。


こちらも本当におもしろい話ですよね。

Wasei Salonで開催されてきた過去の読書会の話なんかにも絡めると、ここから江戸の町人文化としての「落語」なんかにも通じていくのだと思います。

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この建築におけるニューリッチとオールドリッチの対立って、実際、僕自身が関西から関東に戻ってくるたびに、本当に頻繁に身体感覚を通して思わされることでもあります。

漠然と東京にいると何も感じないのだけれども、しばらく関西、特に京都に滞在して東京に戻ってくると、東京の街全体がバラックや掘っ立て小屋みたいだなあと思う瞬間がある。

でもそれもきっと、そんな関西的な品を重視するものに対する反建築的なニヒリズムがあるんだろうなあと。

つまり、成金のラグジュアリーな建物に対して、品格を重視する伝統があり、さらに、そのカウンターとしての粋を重視した建築ニヒリズムが存在する。

これらは決してどれが優れているという話ではなく、それぞれがそれぞれに影響を与え合っているということでもあると思います。

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で、この建築の話ってコミュニティにおいても敷衍できるような話だと思っていて。

今のオンラインを基盤としたコミュニティは大体はどちらかに偏りがちです。

具体的には、成金のひとびとがそれぞれの資産を見せびらかすように集まる高額なオンラインサロンもあれば、一方で、それに対しての品を重視する人たちが存在する。

今だとわかりやすい前者は、YouTuberのひとたちを筆頭に、ひと昔前はIT起業家や芸能の世界などがそのようなコミュニティだったと思います。後者であれば、リベラル的な価値観のスクールや、学術系のコミュニティなど。

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でも、そのどちらかに振り切るわけでもなく、それらのカウンターとしての「粋」な空間って、きっと新たにつくれると思うのですよね。

具体的には、派手にしすぎるわけでもなく、何か権威や伝統に対しておもねりすぎるわけでもないもの。

あくまで、個々人の集合体である状態でありながらも、でもその孤独感に対して不安を感じて金メッキをはるような成金感を出すわけでもなく、ただただ全員が自然体でありたいと願うような。

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この点、「粋」といえば、どうしても思い出してしまうのは九鬼周造の『「いき」の構造』の話です。

あの本の中で「媚態、意気地、諦め」これら3つの要素が絶妙なバランスで組み合わさることで「いき」が形成されると九鬼周造は語ります。

この3つの概念は、コミュニティを構成するときにも、間違いなく活用できるものであると僕は思っていて、僕が思う「敬意と配慮と親切心、そして礼儀」という話も、意外とこの媚態と意気地と諦めに親しいものだと、今日書いてきて、ふと気が付きました。

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少なくとも、成金や伝統、どちらに対しても「野暮」だと感じたり、何かしらの違和感を感じたりする「何か」があるのであれば、自分たちとって決して無理のない「粋」な感覚を目指せばいいと思うんですよね。

成金か伝統か、そのどちらかに属さなければと焦るわけでもなく。

言い換えると、別にそれらに対抗するために何か明確なイデオロギーじみたものを掲げたり、数字で判断できるものによって、直接反論しようとする必要もない。

どちらの基準にも乗っからず、「無理せず、普通に生きればいいじゃん」と。

「歓待する心を持って、目の前の相手を別け隔てなく尊重すればいいじゃん」と。そのほうがお互いに居心地が良いよね、という純粋にプラグマティックな感覚で。

そういう、普通を突き詰めること、無理のない自然体を目指すことって、何周か回って、今とても重要なスタンスだと思うんですよね。

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「建築」だろうと「暮らし」だろうと、結局はそんな「センスのある普通」を体現することがいちばんむずかしいわけで、それゆえに、そこを目指し続けようとすること自体には間違いなく価値があると思うのですよね。

過度に極端で派手なことをしない、とはいえ日本的なハレとケの感覚や「荒ぶ」や「和らぐ」の緩急も大切に。

大事な概念は、いつもこのあたりにあるよなあと思っています。

一番目のつきにくいところだし、一番わかりにくいところでもあるわけですが、ここの価値観を共有できる人たちと共に、僕はコミュニティをつくっていきたい。

このような空間を明示的に求める人は現代には決して多くはないかもしれないけれど、潜在的に求めているひとは意外と多いと思いますし、これからさらに階級差や格差や広がっていけば、なおのこと、そのような場は必然的に求められていくようになるかと思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。