最近、各方面で「孤独」について語られる機会が一気に増えたなあと思います。
それというのも、2025年問題なんかを目のまえにして、独居老人や、独身者や単身者が増えたことで孤独における問題が、様々な場面で顕在化しているからだと思います。
でも、誤解を恐れずに言えば、僕はそれって全部ウソだと思っていて。
孤独のリスクや問題と語り始めたとき、人間生きていれば誰しもが「孤独感」を感じたことがあるから、暗黙の前提として、何かそこに確固たる欠落が存在し、それを埋め合わせなければいけないもんだと思い込んでしまいます。
でも、そんなわけがないんですよね。今日はそんなお話を少しだけ。
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この点、先日サロンの中でもご紹介した作家・山田ズーニーさんのTwitter上のつぶやきが本当に素晴らしかったと思っています。
再度ご紹介してみると、以下のようなことを書かれていました。
私たちは何も考えずに、「あなたは結婚してるから」、「あんなかわいいお子さんもいて」、幸せいっぱいでしょ、悩みないでしょ、みたいなことを言いがち。でもたくさんの人の表現に触れて思う、「家族ができたからって孤独が無くなるわけじゃない、孤独のカタチが変わるんだ」と。
これは本当にそう思います。
孤独を避けようとして、様々な方法で、その孤独感を必死に滅しようとしてみたところで、孤独が消えてなくなるわけではなく、その孤独のカタチが変化するだけで。
だから本当は、人間はどこまで行っても孤独なんですよね、根本的に。
それがあたかも「これを買うと、これを信じると、これを読むと、この人たちとつながると〜、孤独がなくなります」と世の中のありとあらゆる商品において、そんなふうに喧伝されてしまっている。
何かを手に入れれば、あたかも自分の身体の中の欠落が埋められて、孤独が存在しなくなるように思わされているのが、世の中の大きな落とし穴でもあるなあと思います。
でも、冷静に考えてください。繰り返しますが、そんなわけないじゃないですか。
孤独というのは、形を変えて、どこまでもどこまでも追いかけてくるに決まっている。
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そして、だからこそ、ここで一歩立ち止まって、ゆっくりと考えてみたいなあと思うのです。
なぜ、孤独の形というのは、いくらでも自由に変形しうるのか。
逆説的なんだけれども、それは、そんなものは最初から存在しないからなんですよね。
ここが今日の一番強調したいポイントです。
つまり、「孤独」も「影」と一緒なのです。
影も、自由自在に形が変形するけれど、「影」という実体は存在しない。
だから、「孤独」も同様で、心がそれを感じているという実感を持ってしまうだけであって、そんなものは最初から存在していません。
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この点に関連して、僕がいつも不思議だなあと思うのは「言葉によって傷つけられた」という表現をする方々が、世の中にはあまりにも多いなあと。
相手から発せられた言葉というもので、私の「こころ」にあたかも外傷がつけられたというような表現をする。
そのために、治療や治癒において、相手の謝罪や社会の救済が必要だ、というように語る。そして、そのような外傷があることを理由に自殺してしまうような悲しい事件も多発している。
ゆえに、自分の治療だけでは飽き足らず、そのような言葉の暴力をこの世の中からなくそうと、他人の心の傷までも明確に存在していると証明しようと躍起なひとも、ものすごく多いですよね。
でも、実際には心は、何も傷ついちゃいない。それは幻想だ、目を覚ませ!と思います。
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ブッダの法話の中にあるあの有名な「悪口」の話と、まったく一緒です。
ブッダは、招待客に出された食事に、その招待客が手を付けず食べなければ、残った食事は誰のものか?と問いかけます。
もちろん、その残された料理は、それを振る舞ったホストのものになります。
だから受け取らなければ、その言葉は、その本人のものでしかないはずなのです。
にも関わらず「私はあのひとの言葉によって傷つけられた」と語っているひとたちは、自分から積極的にその出された苦手な料理を食べて「まずいまずい、毒が入っていた」と言って騒ぎ立てているようなもの。
だったら、食べなきゃいいじゃないですか。「智恵ある者に怒りなし」とは本当にそのとおりだと思います。
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あとは、仏教に関連して、禅の達磨大師の話にもつながる。
「心をもち来たれ、汝が為に安んぜん」というあの有名な言葉。
これは、達磨大師の弟子である慧可に向けられた言葉で、慧可は「私の心は寧らかではありません。どうか安んじてください」と願い、達磨大師は「では、心を持ってきなさい。安んじてあげよう」と言います。
でも、慧可はいつまで経っても、達磨大師のところに心を持ってくることができない。なぜなら、そんなものは最初からないからです。
そこで初めて、慧可は悟ったというお話です。
また、その後に続く、別の禅僧・慧能の免許皆伝の話なんかも、全く同じです。
このあたりは、説明しているとどうしても長くなってしまうので、詳しい話は、飲茶さんの『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』という書籍の中に、めちゃくちゃわかりやすく書かれてあるので、ぜひそちらを合わせて読んでみてください。
オーディオブック版が、聴きやすくてオススメです。
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さて、ということで、心もそれが感じている孤独も、そんなものは捉えようとしても仕方ない。そもそも「ない」のだから。
先にご紹介したズーニーさんは、続けて以下のようなツイートもしていました。
そして、孤独のカタチの数だけ「幸せのカタチ」もある。これも数えきれないほどの人々の表現に触れて学んだこと。
こちらも、本当にそのとおりで。
人間が漠然と生きていると、自然とそこにあると思っちゃうのがこころであり孤独です。
でもそれは、意識やそれが集合した世間の罠であって、もっと「幸せのカタチ」のほうに目を向けていきたい。
自分の影のほうばかりを見て「あそこに誰かがいる!」と怯えてしまうのは、あまりにも愚かです。
だからこそ、できることなら「孤独を感じている私とは何か?孤独を確かにそこにあるものとして感じてしまう、心とは何か?」そんな問いのほうを共有できる仲間と出会えることが、本当に大事なのだと思います。
そして、孤独や心の浮き沈み、その幻想的な作用のほうはまったく気にしないということが一番だと思います。
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でも現代社会の厄介なところは、孤独を強く感じるから、その欠損を埋めるために、群れてしまうところ。それが、共同体やコミュニティの役割だと思われてしまっていることが一般的になってしまっているところです。
もっと具体的にいうと、孤独だから、それを避けるためにエンタメやフェスのような祭りもどきで気を紛らわして、一瞬のアドレナリンやドーパミンの中毒状態に陥って、孤独が解消された!と理解したがる。
でも、それは誤解なのです。
そりゃあ、ステージの上に立って四方から光を当てられたら、一瞬は影がすべて消えたように感じられるでしょう。
でもステージから降りた瞬間から、目の前にまた影が立ちあらわれてくるのも事実。
その繰り返しをしていると、むしろより一層、脳内麻薬の奴隷にもなっていく。
その浮き沈みが、ドンドンと激しくなる一方だからです。酒や睡眠薬の量が増えるのと根本的には一緒です。もっともっと、となっていく。
現代のインフルエンサーやアジテーターは、そんな人たちだらけです。でもそうすると、より一層、孤独という状態から抜け出せなくなっていく。集って群れることによって、さらに孤独感を強めていく悪循環です。
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最後に、「孤独」の話は、現代社会の構造上、2024年以降はさらに取り上げられる機会が増えてくるかと思います。これはもう避けようがない。
だから、どうかこれを読んでくださっている方々は、そのような些末な議論に惑わされないようにお気をつけください。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとって、何かしらの参考となっていたら幸いです。