先日のWasei Salonの合宿で、長野県で2棟の一棟貸し宿を経営している「nagare」の石川さんのお話を聞いていて、とても強く思ったことがあります。

それがどんな内容かといえば、ローカルには何かビジネスの正解があるというわけではないのかもしれないなあということです。

そうじゃなくて、思いっきり振り切っているひと、実験しているひとのところに自然と成功はやってくるのかもしれないなあと。

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なぜなら、思いっきり振り切っているから、自然とまわりが助けたくなるから。まさに、nagareの石川さんはそんな方。

そしてそれが、決して私利私欲ではないことも、とっても大切だなあと。

もちろん「情けは人の為ならず」であって、最終的には巡り巡って自分に返ってくるわけだから、私利私欲じゃない欲望なんて、究極この世には存在しないのだけれど、「普通、そんなのリスクありすぎて誰もやらないでしょ」って思うことをやってしまうと、逆に成功するのかもしれないと感じました。

だから、客観的なビジネスの正解が明確に存在しているというよりも、まずはそっちな気がしているというのが今日の主題になります。

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この点、改めて振り返ってみると、ローカルで実際に成果を出しているひとたちや、いま町のひとたちからもちゃんと応援してもらっているひとたちは、そんなふうにちゃんと自らがバッターボックスに立って、そこでバットを思いっきり振り切っている方々ばかりな気がしています。

逆に、安定的なビジネスにしようとすればするほど、企画やビジネス自体が凡庸でつまらないものになってしまいがち。

これは誤解を恐れずに言うと、そもそもの大前提として、ローカルを選んでいる時点でビジネスとしては、完全に失敗しているんですよね。

言葉を選ばずに言えば、過疎地のローカルを舞台にしているその時点で頭は十分におかしいんです。ビジネスのセオリーに完全に反している。

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「いやいや、過疎地のローカルでもビジネスは成り立っている!」というひとは多いと思いますし、それは数字の面でも反論が来ると思います。

でも、そうやって今現在の数字が良かったとしても、5年後〜10年後の日本の状況において、それが今と同じだけの利益を稼ぎ出しているビジネスとして継続できているかどうかは、決して定かではないはずです。

ビジネスというのは、基本的には未来への投資であって、その投資において複利の効果を出していけるかどうかが一番の肝であるはず。目先の利益なんて正直どうだって良い。

そして、ローカルは間違いなく下降曲線を描くことはわかり切っていることでもある。これは、人口比率的に考えても既に起きた未来なわけです。

むしろ、その目先の利益を先送りできればできるほど、そのリターンは大きくなるのに、ローカルにおいて、未来はかなり高い確率で暗闇なわけだから、そんな複利効果は最初から狙えません。

だから逆に、今が刈り取りフェーズという時点でヤバいはずなのです。

そのようなビジネス状況が限りなく黒に近いようなグレーで不透明な空間に対し、何かしらの自らの資本を投資してしまっている。

それは金融資本に限らず、人的資本でも、社会資本でも、ありとあらゆるリソースを投じていること自体が、既に十分にギャンブル性が高いことだということは、きっとわかってもらえるのかなあと。

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たとえば、わかりやすいところでいくと、社会資本ひとつとっても、せっかく人対人で、長い時間をかけて信頼関係を築けたと思っても、その信頼を築けた方々が自分よりもはやく引退したり、鬼籍に入る可能性というのは非常に高くて、そこに社会資本を蓄えようとするのは、リスクが高い行動なわけです。明日には紙くずになる株式に投資するのと、一緒です。

同世代や下の世代に対するギブはまさにギブアンドテイクの「お互いさま」になる可能性はお互いの人生の中でかなり高いけれど、自分よりも年齢がだいぶ上の人たちに対しては、たぶん一方的な奉仕で終わる可能性は非常に高い。

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でも、そのような事柄をすべてわかった上でもなお、ちゃんと自らがバッターボックスに立って、リスクを取り人生をかけて思いっきりバットを振って挑戦しているのを見ると、僕はどうしても応援したくなってしまいます。

じゃあなぜ、応援したくなるのか?

それは、この日本を継続させていく以上、誰かがやらなければいけないことだと思っているから。

それは、みなさんもどこかで薄っすらと感じ取っているはずです。

ただ、多くの人は「そのリスクを取るのは、自分ではない」と思っているわけですよね。

その理由は、本当に様々で、単純に面倒くさいとか、守るべき家族がいるとか、自分はそんな器じゃないとか、様々です。

ミスチルの「HERO」の歌詞、「例えば誰か一人の命と引き換えに世界を救えるとして僕は誰かが名乗り出るのを待っているだけの男だ」というあの話と、まったく一緒です。

でも、やっぱり誰かがやるべきことなんですよね。

ゆえに、それをモノや空間としてハッキリと現実に体現していて、その覚悟を示すことができているひとは本当に強いなと。もうそこから、絶対に逃げられないわけですから。

他者からの応援は、そうやって物理的な質量のある形で、他者に提示することができるようにリスクを取った者のもとにだけ訪れる、ギフトのようなもの。

そのときに、振り切っている姿勢を見せられると「あー、本気なんだ」ってわかる。そんなとき、僕はついつい両方の意味で「やりましたね!」って言いたくなる。

同時に自分の中に、やっていない自分に対しての後ろめたさもあるわけだから、必然的に応援しよう!って思えるわけです。

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成功における、本当の本当は、この順番なんだと思います。振り切った者のもとにだけに成功は訪れる。

どうしても僕らは、まず何か客観的な正解があって、そこに見事に当てたから彼は(彼女は)成功したんだと思いがちなんだけれども、人が取らないようなリスクを取ったからこそ、周囲が「だったら…」と応援してくれて、結果的に成功が訪れるというような。

そのような目の前の相手の崇高な夢というのは、もはやそれすなわち、自分の夢でもあるわけですから。

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この点、最近、頻繁にご紹介している発酵デザイナー・小倉ヒラクさんの『日本発酵紀行』という本の中で「今を生きる」プロセスの話が書かれてありました。

ここの部分が、今日の僕が伝えたい内容に関連してくるなと思ったので、また本書から少しだけご紹介してみたいと思います。

ヤマクロ醤油の山本さんたちの活動を見ていると、歴史を「神の視点」で見ることが恥ずかしくなってくる。神様のように世界を見下ろして「世界の流れは必然的にこうなるであろう」と預言者ぶって、アンタ誰だよ?     時代は常に「自分込み」で動いている。流れは「起きる」だけではなく「起こす」こともできる。そのためには、まず地面に降りてくる。一人から始める。始めたことを仲間とシェアする。そのプロセスを楽しむことこそが「今を生きる」ということだ。


ヒラクさんは、時々このような全力で中指を立てるようなことを書いてくれるから、本当に好き。

フワッと優しい印象と、目の奥にどす黒いものが渦巻いているのがヒラクの本当にいいところです。

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この点、現代は、問題点ばかりを言挙げして、自分で何かその問題点を解決するために、リスクを取って活動するひとが少なすぎる。

少子化のリスクや孤立のリスクがあるとちゃんと社会状況の中でわかっているひとほど、「じゃああなたは、その問題点に対してどんな活動をしているんですか?」と問うてみると、何もしていない。

その問題点を緻密に整理し、言語化し、問題だ、困ったと神の視点から論じているだけだったりする。

そりゃあ、問題を認識しているエリートたちが、みんなそうやって自らリスクを取ろうとしないのだから、今のような社会になっても当然だよね、と僕は思う。

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繰り返しますが、何か客観的なビジネスの正解があるわけではないのです。

それが、どれだけ無茶なことであっても、自分がやらないと、誰もやらないと覚悟を持った人間が成功するだけです。

そして、それが万が一失敗したとしても、ナイスチャレンジとなるはずです。失敗が許容される社会というのは、そういう社会であって欲しいなと僕は思う。

何かおっかなびっくりで、適当に片足を突っ込んで、それで失敗してしまい救ってもらえない、私は社会に傷つけられたっていうのは、たぶん違う。

でも、そういう人ほど、失敗を許容しろと現代では嘆いている。

本当に失敗しても、救われるべきひとはちゃんとリスクを取った人たちのほうです。しかも自分や自分の家族のためだけではなくて、社会や共同体のために、挑戦をしたひとたち。

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僕は、そのように本気でリスクをとって世界を変えようと思っているひとたちを、言祝ぐことをこれからもしていきたいなあと思っています。

「あなたの行動や挑戦には、間違いなく価値がある」と。そして、彼らローカルの挑戦者たちの孤独を、少しでも和らげたい。

そして、同時に、ここにこんなにも無謀なチャレンジを自らリスクを取って「僕らの代わりに」やってくれているひとたちがいますよ!っていことを、社会に向けて全力で伝えていきたい。

だから実際に自分自身も現地に訪れてみるし、そして、そのようなチャレンジをしている人たち同士を横でつなぎたい。応援する人も含めて、です。

そのためのコミュニティが、このWasei Salonでありたいなとも願っています。

そうすればきっと、そこに関わる全員の生存確率は飛躍的に高まるはずだから。手を組むことの本質的な意味は、ここにあるように思います。

そして、強いて言えば、これが臆病な僕が取りたい「リスク」なんです。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、何かしらの参考となったら幸いです。