近年、タイパという言葉が当たりまえのように世間で用いられるようになり、そのタイパを重視する行動の代表例が、コンテンツの「倍速再生」です。

新書『映画を早送りで観る人たち』という本もベストセラーになり、そのような若者のコンテンツ消費の傾向に対して「けしからん!」という大人の意見も、一方で根強い支持を得ているような世の中です。

結果として、倍速派と等倍派が、完全に二分されているような状態だと思います。

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で、なぜ唐突にこんな話を始めたのかと言いますと、先日開催されたWasei Salonの忘年会で、あたりまえのようにみなさんが倍速再生を用いていると思って「コミュニティラジオを倍速で聴いている方は、どれぐらいいますか?」とトークイベント中に聴いてみたところ、まさかの等倍派が大多数でびっくりしたからです。

てっきり、みなさんも倍速で消化しているのかと思いきや、丁寧に「等倍」で聴いてくれていたご様子。

これは本当に素晴らしいことだし、同時にありがたいことだなとも思います。

ただ、その等倍の多さにビックリして、懇親会のときに「他の音声コンテンツに関しても等倍で聞いている」という話も聞かせてもらって、みなさんめちゃくちゃ真面目だなあと思いました。

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一方で、僕がいま等倍で消費しているコンテンツというのは、映画館で観る映画ぐらいしかない。本当に嘘偽りなく、そうです。

映画館だけは、等倍でしか観られないから、そうしています。だからこそ、近年は映画館に頻繁に足を運ぶようになったのだとも思います。(それが逆に新鮮な体験であるということ。)

もちろん、等倍派の方々には本当にごめんなさい、という気持ちでいっぱいです。

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で、等倍派のみなさんに話を聴いてみたところ、みなさん「間(ま)」の話をしてくれました。

「本物(本当)の間を、大事にしたいから」と。

何度も繰り返しますが、この心がけは、大変素晴らしいこと。それは大前提のうえで、ここからは個人的な見解を書いてみたいのですが、一方で、作り手目線からすると等倍は果たして本当に「等倍」なのかなとも思うのです。

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たとえば、僕は、倍速で聴きやすいように、わざとVoicyではゆっくり話していたりもします。

自分が倍速で聞くからです。つまり等倍は、僕にとっての真の「等倍」じゃない。

この話に限らず、等倍というのは「本物」に近いという解釈は、どこか作り手目線からすると、間違っているような気がしたんですよね。

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「いやいや、とはいえ対談コンテンツとかは、間(ま)も込みだろ!」という風に思われるかもしれないですが、同じ空間に居合わせていないと、本当の間(ま)なんてわからない。

たとえば気温や季節が違えば、間の感じ方も異なります。また、その場の緊張感によって、全員の脈拍数も違う。朝なのか、深夜なのかによっても異なる。

もちろん、そこに前後の文脈も存在する。たとえば近年、暴露系のパワハラの音声が流出することもかなり増えたけれど、よくよく聴いてみると、その前後の文脈が欠落している場合も多いです。

だから、究極、「等倍のコンテンツ」や、そこから導かれる「確からしさ」や「真実に限りなく近い」というのは、誰にもわからないし、現場限りの1回性の強いものであると思うのです。

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だから僕が思うのは、等倍というのが、「客観的な真実(に近い)」という解釈というのは、意外にも結構怪しいものだなとも思っていたりもします。

そもそも、そこまで現実にこだわるのであれば、現場に行くことが何よりも重要で。

それが一番のウソ偽らざる”等倍”だと思います。

この点、スポーツ観戦なんか、とてもわかりやすいと思いますが、テレビの映像で観るのと、現場で見るのとでは、ボールのスピードなんかは段違いです。

等倍で見ていても、その体感速度なんて、全然違う。

ただし、たとえ現場にいったとしてもなお、自分という認識主体が常に変化し続ける以上、その解釈というのもまた、自らの「今」のバイアスが掛かっていることも忘れてはいけないはずで。

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つまり、ここまで長々と書いてきて、今日の鳥井は一体何が言いたいのか?と言えば、等倍で聞いているから、間をちゃんと把握している、それが文脈を“正しく”把握しているという主張に内在している怪しさというか、その落とし穴みたいなものをここでは強調してみたいのです。

それは本当にそのとおりだと思う一方で、僕らはデジタル処理されているものを、正しく把握することなんてそもそも不可能で。そんなことはできないという大前提をまずは把握したいよね、ということです。

デジタルで処理されてしまった時点で、たとえそれが「編集なしの生の音源」だったとしても、それはすべてフェイクニュースとまでは言わないけれど、ポスト・トゥルースではあることは間違いないなと僕は思う。

もちろん、だからって、なんでもかんでもアリだという話をしたいわけでもありません。

そこだけは、くれぐれも誤解しないでいただきたい。

この「デジタル処理」におけるズレに対して、もっともっと自覚的になったほうがいいのだと思うということです。

今いちばん大事なのは、この真実は絶対に認識・把握することはできないという自覚なんじゃないかってことを言いたいんですよね。

何でもかんでも、現実に近い等倍で聞くことを心がけることではなくて、です。

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僕はなんでもガンガン倍速にするから、自分が常に恣意的に理解や解釈をしてしまっているという自覚というか、引け目みたいなものが常にあります。

それは、他者のコンテンツ(意見)を、恣意的な濫用をしているという自覚みたいなものです。

誰かの話をご紹介する時も、僕なりの解釈であり、僕の要約だと念を押してお伝えするのはそのためです。(本来、そんなのは当然だから言及する必要もないはずなんですが)

この点、客観的な真実について、語り手によって多面的に語られがちであるということを示したいときに、「群盲象を評す」の言葉を用いて語りたがるひとは、非常に多いです。

この言葉を使うひとは、とてもリテラシーが高いんだろうなとは思いつつ、一方で、客観的な真実が絶対値として一つ存在していて、象は必ず象としてたったひとつ存在してそこにあるというような、誤った認識にも陥りかねない言葉だなあとも同時に思います。

盲目じゃなくて、目が見開いていれば、それが象だとわかるのだというふうに。

でも僕は、それって本当に?と思います。目が見開いていても、象という客体は認識できないし、たとえ認識できたとしても、象というたったひとつの存在じゃないかもしれないわけで。

真実や正義は、人の数だけ存在するというのはそういうことだと思います。

古くは黒澤明の映画『羅生門』や、最近だと映画『怪物』で描かれたような世界観の話でもありますよね。

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「客観的な真実なんて存在していないのかもしれない」というある種の「疑念」やそれを常に恣意的に用いてしまっている「引け目」のほうが、僕は現代においては、ものすごく大事なスタンスだと思います。

もう、みんなバラバラの客観を通して、世界を認識してしまっているのだから。ゆえに、その情報の形自体も様々で。

自分がそうなんだから、他者だってそう。

等倍で聴いているから、自分は倍速組よりも優れている、正しいことをしているんだなんて思わないほうが良いんだろうなあと。

極端な話、全員が「フェイクニュースに触れている」という引け目ぐらいが、実はいま一番大事なんじゃないかと思っています。

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最後に、今日の話は、自らの倍速再生というスタンスに対する、長い言い訳だと思われてしまうかもしれないですが、倍速再生をテンプレ的に批判するひとたちの話を、過去10年間ぐらいずっと聴き続けてきて、その「正義」に対して疑念を抱くことも多かったので、今日改めてこのブログに書いてみました。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が誤解なく伝わっていたら幸いです。(果たしてこの場合における「誤解」とは何か…)