唐突ですが、今って「見られるもの」と「見せるもの」、その基準が非常に曖昧になってきていると思います。
具体的には、AIやテクノロジーの進化発展によって自分の「挙動」がすべて丸裸にされてしまう世の中です。
たとえば、NFTの登場によって「お財布の中身(資産の有無)」なんかは、その履歴も含めて、今はもう完全に透明化されてしまうような時代です。
そして、これから少しでも国際的な緊張関係が高まれば、何かしらの理由によって、常に町中に監視カメラが至るところに設置されて、私達の行動の一挙手一投足が常に監視されるという日も近いでしょう。
敵国のスパイなどから国家を守るためだという理由であれば、日本国民も納得せざるを得ないでしょうし、国家にとっても、実際のところはそのほうが都合がいいことは明らかです。
僕らが見られたくないと思っているものも、ことごとく全てこれからはドンドン見られるものになっていくことでしょう。
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じゃあ、このような時代の変化が起きてきているときに、僕らが意識しておくべきこととは何なのか。
それはきっと「見られる客体」と「見せる客体」の違いと、その起源をちゃんと理解しておくことだと思います。
この点、以前もご紹介した安田登さんの『あわいの力』という本の中に、すごくおもしろいお話が書かれてあったので、ここで少しご紹介してみたいと思います。
伝統芸能の能の起源とはなんだったのか? その意外な予測から、ものすごく興味深い話が展開されていきます。以下で少し引用してみます。
能という芸能の発生の起源は、まだわかっていません。が、日本の芸能の始原は『古事記』や『日本書紀』のなかに見ることができます。 まず、その起源のひとつと思われるものに、まつろわぬ民たちの芸能があります。 『古事記』の海幸彦一族の芸能です。 魚などの海産物を獲ることをなりわいとする海幸彦は、山の獲物を獲る弟の山幸彦との戦いに負けたあと、山幸彦の前で、自分たちが負けた様をこれから未来永劫、演じ続けることを約束します。現代でいえば、いじめられっ子がいじめっ子の前で、「いじめられている様を、一生演じ続けるので、もういじめないでくれ」とお願いするようなものです。一生どころか子々孫々、未来永劫、嘲笑され続けるということです。強いられた側には非常に 酷 なことです。 これが「俳優(わざおぎ)」の発生です。まつろわぬ民による、支配者への服従の芸能、「見られる」存在としての芸能者が日本の芸能の起源のひとつです。
僕らが今、「見せるもの」の最たる例だと思っている「芸能」というものが、実はもともとは、見られるものであって、笑いものとして一生虐げられる嘲笑の対象だったというのは、かなりビックリしてしまう内容ではないでしょうか。
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そして、その価値の転換をはかり、その意味合いをまるっきり逆転させてしまったのが、能楽師の世阿弥であったのかもしれないのです。
以下で、さらに本書から引用してみたいと思います。
ロロ・メイという心理学者は、「見る」のが「主体的(subjective)」な行為だとすると、「見られる」のは「客体的(objective)」な行為。つまり、「見られる」ということは、人間が「もの化(オブジェクト化)」され、 辱めを受けることだといいます。つまり、海幸彦一族の芸能は屈辱の芸能なのです。 芸能の歴史というのは、芸能者がただ一方的に「見られる」という状況を、どうにかして「主体的(subjective)」なものへ変えていこうという試みだったのではないかと思います。「見られ」ていながら、「もの化」されることなく、主体性を持って振る舞うにはどうすればいいか。
そんなことを数百年も考えていたときに、ある天才芸能者があらわれ、「見られる芸能」を「見せる芸能」に転換するという方法を編み出した。ひょっとしたら、それは能を大成させた世阿弥だったのかもしれません。
つまり、ここで僕が何を言いたいのかといえば、今、テクノロジーの発展、AIという人間を超える可能性(シンギュラリティ)があるものが誕生してきている結果として、僕らは完全に『古事記』の中の「海幸彦」のポジションに追いやられてしまっているわけです。
僕らが、もう見られる客体、他者のまなざしに晒され続ける世の中で生きていかなければいけないということは間違いない。それはもう時間の問題でしょう。
残念ながら、この呪縛からは逃れることができないはずです。いま「恥ずかしさ」を感じていることも、そのすべてが晒されていくはずです。
だとしたら、見られても見られていなくても、まったく関係ないと自らが思えるような行動を取り続けるほかない。
世阿弥が行ったように「見られるものから、見せるものへの転換をはかるしかない」のではないでしょうか。
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これは決して「聖人君子になれ」って言っているわけではないです。
見られていても、見られていなくても関係ないと、私自身が腹の底から思える行動を常に取り続ける必要があるということです。
ひとりひとりが自分の信念に従って「善く生きる」とは、つまりそういうことなのだろうなあと。
そのためには、自分にとって「善いとは何か?」を日々考え続けておく必要がある。
「自分にとってダサいと思うこと、みっともないと思うこと」が何かをしっかりと考えておくことです。
そして、このあたりのお話を非常に分かりやすく語ってくれている書籍として、飲茶さんの『正義の教室』という本があります。
これは、功利主義者であるベンサムが発明した「パノプティコン」を例に取りながら、学校中に監視カメラが設置された校内で繰り広げられる小説形式の物語です。
主人公は、正義と書いて「まさよし」という生徒会長の高校生で、終章で彼は正義論の大筋を理解したあとに、全校生徒の前で演説するシーンがあります。
そこで、まさに似たようなことが語られています。
そして、この本の最後は、かなり衝撃的なラストを向かえるのですが、それはぜひみなさんがご自身の目で読んでいただきたい。
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現代において、赤の他人の行動に対して「みっともない」と指摘するのはもう完全にNGだと思います。
でも、自己の行動に対してはちゃんと「みっともない」の基準を明確に設けて、自分の日常の立ち振る舞いにおいては、その基準をしっかりと運用することはこれからは本当に大事なことだと思います。
もちろん、ときには自己を客観的に見つめて、それが他者からの「呪い」ではないのかを自ら点検することもすごく大切です。
以前も書いたように「みっともない」の語源は「見とうもない」になります。だから他人の言動に対しては、文字通り目を背けて無視するだけでいい。何も言及する必要なんてない。
一方で自己の言動は、そう思ったときほど目を背けてはダメなんだと思います。
みっともないと思うことだからこそ、ちゃんと正しく見定める。それが「私の生き方を考える」ということだからです。
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もちろん、何でもかんでも見せればいいというわけではない。
これからは「私が見せるものを、自ら主体的に選び取っていけ」ということです。
近年であれば、電車の中や人前でメイクすることは「みっともない」行為だとされていたのに、今ではYou Tubeなどを筆頭に、メイク動画が毎日雨後の筍のように公開されているはずです。
この私から率先して見せる行為に、正解なんてものはない。
言い換えると、何を見せているかよりも、その私の主体性の方が圧倒的に重要になってくる。
信念を持って見せられているかどうか。もちろん、その理由がお金を稼ぐためなんてもってのほかだと思います。
そのためには、その判断基準となる「倫理観」を自らの中にちゃんと持ち合わせておく必要があるというということなのでしょう。
そして、時代の流れもしっかりと見定める必要もある。
核兵器やインターネット同様、それが誕生してしまったら不可逆で、決して抗えないものは間違いなくやってきますからね。
さもないと、他人がみっともないと言うから、なんとなく私も見せないし、お金のために何でもかんでも見せてしまうということにもなりかねない。
あなたは何を基準として「見られるもの」と「見せるもの」を区別していきますか。そのパラダイムシフトが、今ひとりひとりに求められているのだと思います。
いつもこのブログを読んでくださっている皆さんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。