今朝、こんなツイートをしてみました。

今日は、このお話をもう少し丁寧に深堀りしてみたいと思います。

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徳の高さとは一体何なのか。

僕の今の暫定解は、「TPOをわきまえた言動ができる」ということなのだと思います。

その中で、誰の目にみても一番わかりやすいのが「服装」です。

この点、現代を生きる多くのひとは「服」とは「自分のために着るもの」だと誤解をしてしまっている。

でも、そもそも「服」とは自分のために着るものではありません。

それは徹頭徹尾、他者に対してのメッセージの一部であり、本来は相手に対して敬意を表すものの一部であるはずなのです。

でも、成金や有閑階級のひとたちが、自らの自己顕示欲を満たすためだけに、ブランド品で身を固めるようになってしまったがゆえに、「服装」にこだわるという行為自体がここまで失墜し、軽視されるようになってしまった。

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自分のためだけに洋服を着るのであれば、それこそ「GU(ジーユー)」で良いとなります。

実際、「ジーユー」が一番「自由」でいい。お財布も痛めませんし、本当にラクです。その解釈は何一つ間違っていない。

でもやっぱり、最近何度も書いてきている通り、人間は「共同体」を構築しないと生きていけない生き物です。

そのためには、他者と「共に創りあげる」という作業が必ず必要になってくる。

それが、場においてわかりやすく発露しているものが「ドレスコード」ということなのでしょう。

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そもそも、この世界にはなぜ、ドレスコードなんて面倒くさいものが存在するのでしょうか。

全員がTシャツ短パンのほうが、個々人のストレスはなくなり一番ラクであり、そのほうが「個人の自由」は最大化されるように思います。

でも、わざわざその「個人の自由」を多少制限してまでも、場を共に創り上げようとお互いに努力するわけです。

高級レストランの場合には「その場を共に楽しみましょう」という意味になりますし、お葬式会場の場合は「共に喪に服しましょう」という意味になる。

そのほうが結果的に全員の意識が共有化されて、結果的に参加している全員の満足度がより一層高まるよね、と。

つまり、個々人がそれぞれにちょっとだけ窮屈な思いをすることによって、共同体の全体的な利益は逆に増大するのです。

共同体に対して敬意を払うとは、まさにそういうこと。

そして、これがつまり「一般意志」を目指す態度そのものなのだと思います。

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一方で、リベラル的な思考を持ち合わせているひとは、そういう儀礼的、形式的な匂いを敏感に感じ取って「そんなの何の意味もないだろう!」と指摘します。

そして、なぜ自分たちがこんなにも不当で窮屈な思いをしなければいけないのか!と批判する。

その指摘はめちゃくちゃ正しいのです。

「Tシャツ短パンのほうがいいだろう!だってそのほうが、みんなの身体も楽になっていいじゃん!さらにお金もかからなくて済むじゃん!」と。

現代の世の中には、確かにそんなマナーを上辺だけでなぞっている人たちが大半だから、その批判はものすごく正しいです。

実際に、なんとなく空気で従ってきたひとたちも、そんなふうに言われてしまうと、そのように感じてしまう。

「なぜ、自分たちはこんな窮屈な儀礼やマナーにしたがってきたのだろうか?」と。

これがリベラリズムという思想の伝播力の強さです。

でもそうすると、最初の1回や2回は確かに良いかもしれないけれど、長期的な視座で眺めたときには必ずそれを軽視したり侮ったりした共同体は衰退 or 崩壊するのです。

逆に言うと、そこを軽視してこなった集団が今も生き残っているということでもあるのでしょう。

それは、以前もこの記事で書いたとおりです。

参照:ひとりひとりの倫理観が高いほうが自由で生きられる。

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さて、このあたりから「徳の高さ」とは一体何か、その実像のようなものが見えてくるのではないでしょうか。

つまり「TPOに合った言動をできる」ということだけが「徳の高さ」ではないということです。

儀礼やマナーをただ周囲の「空気」に流されて形式面だけをなぞるのではなく、その真の意味を理解し、その趣旨目的に合った行動を、自らの意志によって選び取れること。

それが「徳の高さ」です。

つまり、自己の「特殊意志」よりも、社会の「一般意志」を私の思考と決断を経由することによって、納得感を持って優先することができるようになること。

そこに「儀式」が採用されているのは、やはり何かしらの意味があるのだと察知することができること。その意味を自ら発見することができるかどうか、です。

もちろん、それが形骸化している場合は、時代に合わせて変えていっても良いし、むしろ変えていくべきだと僕も思います。

でも、その儀式が生み出されて今日まで採用されるに至った、その最初の「趣旨目的」は決して破壊してはいけない。

リベラルのひとは、時代に合わせて変えようと主張するところまでは良いのだけれども、その趣旨目的を無視して完全に蔑ろにしてしまう。

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また、「徳が高い」状態と、ただの「お行儀が良い」状態との境界線も、まさにここにあるのだと思います。

客観的に見れば、徳が高いひとも、お行儀が良いひとも同じような振る舞いができているひとたちなんです。

一体どちらがどちらなのかは、その言動だけを外見から眺めただけでは、決して見分けがつきません。

でも主観的に見たら、そこにはまったくもって雲泥の差があるのです。

そして、ここまで見えてくると、お行儀の良いだけのひとが、たまに素行の悪い行動に憧れてしまう理由もなんとなく分かるようになるかと思います。

つまり、お行儀の良いだけのひとたちは、自分が信頼したり尊敬する人だったり、師匠だったり、先生や親から言われて、なんとなくそっちのほうが良さそうだという「空気」を察知するから単純に従っているだけなのです。

でも、間違いなく私の中には「個人の自由」を追い求めるような欲求も同時に存在している。自らの体内でいつまでもそれがフツフツと今にも吹き出しそうな状態で存在している。

だから、個人の自由を最大限に謳歌しているひとたちを見ると、それに羨ましいと感じてしまうのでしょう。

つまり、腸内細菌に喩えると「お行儀が良いひと」というのは「日和見菌」のような存在なんです。

ちなみに、自らの快楽を追い求めて、個人の自由を何よりも最優先しようとする人たちは、砂糖やアルコールを常に欲しがる腸内細菌みたいなものです。それで一瞬の快楽は得られたとしても、長期的には破滅する。

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「徳が高い」状態で、その趣旨目的を自らに考えに考え抜いた結果、その状態が腹落ちしていると、素行の悪さには決して憧れないはずなんです。

なぜなら、それが「幻想」だってちゃんとわかっているから。

最初は快楽を味わたとしても、最終的には間違いなく、私を含めた全員が「損」をする行動だと理解できる。

つまり、徳の高いひとは、自己の自由を最大限に追い求める行動なども含めたさまざまな選択肢を、ありとあらゆる角度から徹底的に勘案した結果、納得感を持ってそこに辿り着いているのです。

それが一番、社会にとっても、死者に対しても、これから生まれてくる未来の子どもたちに対しても最適な行動だと。

その結果として、この私にとっても一番価値のある行動だと理解している。

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で、最後に蛇足みたいになりますが、孔子の『論語』のスゴいところは、これをひたすらに語ってくれている書物でもあるという点なんですよね。

言い換えると「一般意志」が一番追い求める価値があるものだと、自らの中で腹落ちするために必要な、その思考プロセスや型を与えてくれる教え(思想)なんです。

「仁・義・礼・智・信」など、みなさんが耳にタコができている教えは、つまりは人間が共同体をつくりだして共に助け合って生きていくうえで絶対に欠かせない素養だということを、僕らにずっと変わらずに教えつづけてくれているわけです。

でも、そんな『論語』を読んで、僕らが古臭い、説教臭いと感じてしまうのも当然のこと。それは、親や先生から無理やり押し付けられてきた儀礼的な事柄と完全に重なるからです。

でも、その思考の型をちゃんと理解して、何を大切にするために生まれた思想なのか、その趣旨目的までちゃんと理解すると、確かにそれが「共同体」を構築するには一番合理的だと気づいてしまうのです。ぐうの音も出ないほどに。

だからこそ、今も変わらずに「論語」の教えが受け継がれているんだと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。