昨日、こんなツイートをしてみました。個人的に最近、一番衝撃的だったことのひとつです。

きっと、こういう人にとって「考える」というのは面倒くさい作業であり、労力を割いてでも自分で考えるべき問題というのは必ず「私がたどり着くべき何か明確な答えがあるはずだ」と信じて疑わないということなのでしょう。

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でも、よくよく考えてみると当然のことですよね。

僕らは学生時代、「答えがある問題を時間内に誰よりも早く解けるようになることが大切だ」とずっと信じこまされて生きてきました。

「答えのない問題」や「多くのひとが答えに辿り着けないであろう問題」というのは「捨て問」、つまり罠(トラップ)であって、それをなるべくはやく捨て問だと見破り、その解答欄は空欄で出しておきつつ、絶対に解ける問題で点数をとって合格点を狙いにいくことが最善策だと、死ぬほど繰り返し教えられてきたわけです。

このことに気がついてからは、自分の考えたことを意見表明することを極端に恐れるひとたちがいることも、なんだか理解できたような気がする。

つまり、自分が考えていることは常に答えがある問いであって、その答えに辿り着いていないと思うからこそ、まだ私の意見を堂々と言えないということなのでしょう。

「間違ったら恥ずかしいと思うから、私の意見が言えない」という理由もまさにここにある。

でも、実際は答えがない問いなのだから、そもそも間違いなんてものが存在しないし、どれだけ変わった意見であっても、それは主張していいはずなんです。

それこそが、本人の「個性」にもなっていく。

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そういえば、僕も高校から大学に入った瞬間に、ひどく戸惑ったことがあることを思い出しました。

「一般教養の授業は、何を選んでも自由だと…?」

「法律には、多数説と少数説がある…?」

本当はそれこそが世界なのに、あまりにも義務教育に慣れすぎてきたしまったせいで、「学び」は常に与えられるものだと信じて疑わなかったわけですよね。

だったら、多くのひとが「答えがない問題」は「考える意味がない」と思ってしまうのも当たり前だと思います。

もちろん、繰り返しますが、実態は全くそうではありません。もちろん、それは決して相対主義的な話でもない。

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さて、このお話は、先日の以下のVoicy内でお話した「先生」の話にも通じると思います。
基本的に、世間の「先生」と呼ばれるようなひとたちが辿り着いた終着点というのは「答え」ではなく、ここから先は「自分の決め」の問題だというところまで、なんです。

だから、彼らが僕らのことおを送り届けてくれる先というのは、「ここから先はあとは自分の力で歩んでいってくださいね、何も正解なんて存在していません」という場所でしかない。

でも、ここまで手取り足取り教えてきてくれたのに、こんな重要なところで、はしごを外すなんてずるいじゃないか!って思ってしまうのだけれども、それが大きな勘違いなんでしょうね。

目の前の崖を飛ぶのは、いつだって自分自身なんです。

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この点は、医療のお話はきっと非常にわかりやすい。

以前もご紹介した稲葉 俊郎さんの『からだとこころの健康学』という本から少し引用してみたいと思います。

病院では、出てくる食事は完全に管理されていますから、医者が考える通りの理想的な環境が準備されます。しかし、退院したら自由の身となるので、その後にどのような食習慣が続くかは、その人次第です。

そんなときに、私はこのように伝えます。 「これはあなたの人生です。これからどうするかはあなたが決めることです。私にできることは、こうしなさいと命令することではありません。あなたが決めるときに、そのお手伝いをすることです」     すると、大抵の人は「先生が決めてくれないんですか」と、ぎょっとします。     当たり前のようですが、人生の主導権を握るのは医者ではなく、その人自身です。先ほどの世阿弥の言葉を思い出してください。医療者の役割は、自分らしい人生を、自分なりの幸せを生きていくことをサポートすることです。だから人生の主人公に、まず主導権を渡します。


そして、これは決して医療だけに限らない。

生き方や暮らし方、自らの精神やその在り方を決める倫理、宗教、法、哲学、文化などなど、すべての事柄は必ずこのような構造にあると思います。

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「答えがない問題」というのは、本質的には誰にも責任を問うことができない問題なのです。

だからこそ、私が私の力で自ら真正面から向き合わなければいけない問いなんだと自覚できるかどうかに、人生の明確な分かれ道として存在している。

でも、大半のひとは、そこが飛び越えられない崖だと誤解してしまう。

そして、もと来た道を引き返してしまうのです。

そうやって引き返すと、テレビでコメンテーターをやっているような「先生」風の詐欺師みたいなひとたちに能動的に騙されてしまう。「私は答えを知っています」というしたり顔をするようなひとたちに、です。

でも、その崖を自分の力で全力で飛ぶことができるようになると、さっきまで目の前にいた先生が突如として仲間になるし、同志にもなる。この不思議。

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とはいえ「世の中には、先生に責任を問うことができる仕組みが多数存在しているじゃないか!」と思うひともいるかもしれません。

具体的には、監督者責任や、善管注意義務などなどです。

実際に「先生」と呼ばれる人間に対して責任を追求することが社会的に容認されているということは、やっぱり彼らには最後まで導く義務がちゃんとあるんじゃないのか、と。

でもそれは、そのような立場を悪用して、他人を騙したりズルいことをするひとたちがいるから、ですよね。

彼らの悪行を許さないために、そのような法律は存在する。

逆に言えば、そのような人達の悪事を追求するとき以外には、決して用いてはいけない責任追及の手段なのだと思います。

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いついかなる状況下であっても他責思考ではなく、自責思考であるほうが結果的に人生はラクになります。

そして、ひとりひとりが自らの決断で責任を引き受ける事ができるようになれば、このような法律自体も不要になるはずです。

なぜなら、詐欺や人を騙す余地さえなくなりますからね。昨日Voicy内でお話した「ひとりひとりの倫理観が高いほうが自由で生きられる」という話の具体例も、まさにここにある。

最後に合わせて言及しておきたいことは、他人の責任を引き受けることが「優しさ」だと決して誤解しないことです。

そういうひとが存在するから、いつまでも「先生」もどきのひとに騙されるひとが後をたたないわけですから。

そのような社会の構造を再生産し続けていることが一番優しくないことですし、残酷なことだと僕は思います。

いつまでも、誤った他責思考のひとがいなくならないのも、その始まりは他人の責任を引き受けてあげようとする誤った「優しさ」を持ち合わせているひとたちがこの世に存在しているからだと思います。

大人になれば、自分の「先生」は自分で選べる。そして、それは決して現代に生きているひとであるとは限らない。ぜひ適切な先生を選んでみてください。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。