僕は昔から、仕事でもプライベートでも、人間関係に悩んでも人にはほとんど相談しません。
この話をすると、なぜかいつも不思議がられるんだけれど、その理由は、必ずこっちの「味方」をされちゃうからなんですよね。
相談してみても、ただ自分(つまり僕)にとって都合よく慰められるだけであって、別にそんな慰めは求めていないんです。
そもそも、目の前の相手に状況説明をする際に、まずはこちら側の圧倒的なバイアスがあって、そして相手もその話だけで判断する時点で、もうそれは完全なる幻想であり、ほぼフィクションなわけです。
喩えるなら、映画『怪物』で、安藤サクラの視点だけで説明されて、瑛太や、あの少年の見ている世界観を想像するようなもので。そんなものは土台無理な話です。
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そして、人間の特性上、相談を聞いてくれるような間柄である相手を目の前にして、相手が「敵」になるような発言をするわけがありません。
もし、仮にそれでも反対意見を述べてくれる場合は、それも間違いなく自分のことを思ってくれての反対意見なわけだから、やっぱりそれも広義の意味では自分の「味方」をしてくれているに過ぎないわけです。
にも関わらず、ひとは友人や知人に対して、気軽に人間関係の悩みを相談してしまう。
個人的には、それが本当に不思議で仕方のないことなんだけれど、単純にそれは慰められたいだけなんだろうなあと思います。
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「あなたは、決して悪くないよ。悪いのは相手の方だよ」と、相談した相手である友人や家族から言ってもらいたい。太鼓判を押してもらいたい。
もちろん、そこに癒やし効果があることはわかります。ときには、そんな無条件の全肯定がないと、私はこんな世知辛い世界を生きていけないんだ!というひとがいることもよく分かる。
でも僕としては、いついかなる場合であっても、それは一ミリも求めてないんですよね。
もし本当に聞いてくれるなら、警察ばりに徹底的にリサーチして、裁判所ばりに状況証拠に基づいた中立的な判断して欲しい。
でも、そんなことやってくれるひとはこの世にはいません。というか、そもそも一人の人間に、それはどう頑張っても不可能です。だから警察も裁判所も組織で構成されている。
ゆえに、僕は、ひとに安易な人間関係の相談はしないことになるんですよね。
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じゃあ、人間関係の悩みは、一体どうするのか。
ここからが今日のメイントピックになってくるかと思います。
まず、自らのバイアスが存在しているという大前提のうえで、それでも自らをよく観察してみることです。
そして、たくさんの本をよく読むこと。特に「古典」を読んでみること。
古典が、時代が変わっても残り続けている理由というのは、時代がいくら変化しても、人間が一切変わっていないからであって、その人間関係の本質を描き出し、ときに人間の見たくない部分や無意識のレベルまで深くえぐり取っているからです。
だとすれば、そこに何か普遍的なものが必ず描かれているはずで、それを自らの置かれている状況を判断するためのひとつの「ものさし」として用いることは、非常に有用な方法だと思います。
大体のことは、このような事柄を通じて、そこに打開策が拓けてくる。
にも関わらず、同じ時代に生きているたったひとりの人間の、しかも自分の味方になってくれてしまいそうな人間の偏見に自らの行く末を委ねることのほうが、よっぽど危険なことだと思います。それは非常に場当たり的な打開策にすぎない。
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あとは、自らが対立している相手、その人間関係の悩みを発生させている相手の嫌な部分や問題点を、全体視しないこと。
ここは、特に強調しておきたいポイントになります。
たとえば、人間関係で悩んでいる場合、その人との間における特定のジャンルにおけるひとつの事柄に過ぎないはずなのです。
たとえば、仕事面であれば、そのひとの「仕事との向き合い方が許せない」とか、仕事の中でも特に「テキストコミュニケーションの部分が気に食わない」とか、色々とあると思います。
その場合だったら、その人とはテキストコミュニケーションを取ることを、なるべく避ける道を探ればいいし、もしかしたらその人とは一切一緒に仕事をせず、プライベートだけで交流すれば良いかもしれない。
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たとえば、この点よくありがちなのは、ファーストキャリアや最初からずっと存在している仕事面における、人間関係に固執し過度にこだわってしまうこと。
大抵のひとは、昔から付き合いのある人間を、自らの最高のパートナーのように思ってしまいがちです。
これは、先日のファーストキャリアの話とまったく一緒です。それを何か「天職」の仲間のように捉えてしまうわけですよね。
でも、実際のところは、現実問題そうじゃないわけです。最初は相性が良くても、お互いが刻一刻と変化しているわけだから、そこにズレのようなものが生じてきても、当然のこと。
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そして、そのうえで「人の縁を大切にする」と「ぬるい仕事をし続けない」というのは、全く別の話だと僕は思います。
でも、多くの人は「人を大切にする」という美しい言葉を隠れ蓑にしてしまい、そこまで乗り気ではない古くからの仕事仲間との仕事や、その結果としてぬるい仕事を肯定し続けることがある。
そうやって、圧倒的な善である「人の縁を大切にする」という言葉を印籠のように掲げると、「自分は悪くない」という優位なポジションに立つことができてしまいますからね。
あくまで悪いのは相手であって、自分は「人を大切にしている」だけなのだと。でも、そうやって、やらない理由、挑戦しない理由にしてしまうのは本当によろしくないと僕は思う。
つまり、「人の縁を大切にする」と「ぬるい仕事を断ち切る」というのは、いつだって必ず両方同時に成立し得る事柄なんです、本当は。
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だからこそ、局所的な問題点を、全体視しないこと。
そのうえで、相手の好きなところだけにフォーカスして、相手との関係性を大切にすればいい。
ものすごくドライだなあと思うかもしれないけれど、ひとりの人間にすべてを求めるから生きるか、死ぬか、その人間のすべてを肯定するか、すべてを否定するか、という極端な二者択一になってしまう。
そうじゃなくて、場面や役割ごとに、適宜適切に判断すればいい。
そうすると、この人のこの部分は断固完全に拒否したいけれど、でもこの部分は、引き続きお付き合いし続けたいということにもなって、それで全く構わないはずなんですよね。
結果的に、人間関係のありとあらゆるストレスは、みるみるうちに減っていきます。
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この点、日本人は、何かクリティカルだと思うものを全体像として判断して、個人のすべてを否定してしまいがちです。それが日本人の本当に悪い癖だなあと思います。
たとえば、俳優が薬物などの犯罪によって捕まって、それだけで過去の作品がすべて非公開になってしまうような問題なんかと、これはまったく一緒です。
もちろん、その逆も然りで、人間としてクリティカルだと思う事柄(主に仕事面)が最高だからという理由で、それ以外のヤバいところに対しても、目をつぶってしまいがち。
たとえば、極端に酒癖が悪いとか、現代社会の倫理観の中で許されない性癖を持っているとか、ギャンブルが大好きとか。
ジャニーズの問題とかもまさにそうですよね。ジャニー喜多川という人は、エンタメの分野においてはやっぱり類稀なる天才だったのだと思います。それは、どんな真実がこれから明るみになっても、決して揺るがない真実だと思います。
でも、やっぱり小児性愛の部分は、現代社会の基準から言えば、絶対にノーを突きつけるべきであって。でも、すべてを受け例れるか、全てを拒否するか、その二択だったから、あまりの天才さゆえに、ネガティブな部分も受け入れる方を芸能界が選んでしまったわけですよね。
部分的にノーを言えることが当たり前で、そのような価値判断を僕ら日本人が持っていたら、あのような悲しい事件もきっと起こらなかったはずなのです。
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さて、最後にまとめると、まず、安易に相談相手に自分の味方になってもらって、自らの立場に安住しないことが何よりも大切だなあと僕は思っています。
次に、自らが人間関係に悩んだ場合には、まずは丁寧に自らが置かれている状況を観察してみること。そのうえで、古今東西の「古典」を参考にしてみること。
最後に、相手と自分のバッティングする部分が、どれだけ両者にとってクリティカルな事柄であっても、それを全体視しないこと。付き合いたいと思える範囲や側面で、相手との関係を続けて、人を大切にすることも可能。その上で、拒否する部分はハッキリと拒否していくこと。
この3つの要素が、いま本当に大事な事柄だなあと思います。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
2023/12/23 17:25