マーケティング用語で、ナーチャリングという言葉が個人的には正直あまり好きではありません。

ちなみ意味としては、ナーチャリングとは、既存顧客・見込み顧客に関わらず、顧客の購買意欲を醸成するマーケティング活動全般を指すそうです。

非常に重要な概念ではあるとは思いつつ、なんだか、そこには知っている人間が知らない人間に対して「教えてあげる」という上から目線があるような気がするし、それが転じて、ともすればすぐに、マルチ商法やカルト宗教に直結するような危うさも存在するなあと。

さらに、そこにビジネス、つまりお金が紐づいてしまうこと自体に、ものすごく大きな違和感があります。

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ただ、現代においては、ナーチャリング的な事柄が重要であるということは間違いない。

なぜなら、それは、売り主がと買主側の今の世界認識やそのコンテキストを揃える行為でもあるわけだから。

従来のように、みんなが同じマスメディアが報じる情報に触れて、皆が同じようなものを欲しがっているタイミングであれば、そのような前提条件(コンテキスト)が揃っていること自体が当たり前だった。

でも今は、それぞれが全くバラバラのメディアに触れているため、世界認識やそこから生まれる課題感さえも、十人十色なわけです。

だから、企業側がその世界認識やそれを解決するための商品をつくって、それを買ってもらうためには、一番重要なことはまずそのお互いの認識を揃えるところからなわけですよね。

ゆえに、これほどまでに近年はナーチャリングの重要性が広く一般的に語られるのだと思います。

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ただ、日本人の中に存在している「粋と野暮」の感覚だと、このようなナーチャリングみたいなものは、完全に野暮極まりない話であることは、まず間違いないかと思います。

多くの企業が、本当はもっともっと品質だけで勝負したいと思っている。そのほうが粋であるという感覚は間違いなくあるかと思います。

これは「武士は喰わねど高楊枝」的な感覚にも近いのかもしれません。

それは、上述したようにマルチやカルトに似ていると思われてしまう部分にも原因があると思います。どうしても、信者ビジネスに近いとも思われてしまいがち。

だから、ここに多くの企業のジレンマが存在するんだろうなあとも思っています。

とはいえ、そんなことを言っている最中も、ドンドンと物自体が売れなくなっていく世の中。

一方で、粋とか野暮とか関係なく、自らドンドン情報発信をして、ナーチャリングを徹底しているインフルエンサーたちが、今度は次第に自分たちオリジナルの商品をつくり、製造の分野にまで参入してきているわけですよね。

それは先日もお伝えした「P2C」マーケティングそのものです。

一昔前は、企業の商品をキュレーションし勝手に販売をしてくれていたのに、もはや彼らはOEMで自分たちのオリジナル商品をを売ろうとしていて、完全に競合関係になってしまったわけです。

ゆえに、企業側も、そのような世の中的にうまくいっているナーチャリングのような手法を試さざるを得ない状況下にあり、まさに背に腹は代えられないというような状態が今なわけですよね。

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じゃあ、企業側は一体どうすればいいのか。

この点、僕が気がついたのは、答えや正解らしきものを一方的に提示していること自体が、きっと野暮ったいと思われてしまう、その原因なんだろうなあと感じます。

一方で、コンテキストを共有しようとする行為自体は別に良いも悪いもないはずで。

むしろ、「なぜ今これが重要なのか?この課題感を共有する必要があるのか?」は大切で、その課題に対する答えや、正解が企業も消費者も同程度にわからないからこそ、共に考えようというスタンスは、むしろ健全なんじゃないのかなあと思うわけです。

つまり、企業がマルチやカルトなどダークサイドに陥らない第三の道として、答えや正解ではなく、問いの共有と、共に学ぶこと、そのコミュニティをつくり出すことなんじゃないかと僕は思うのです。

ここが今日一番強調したいポイントです。

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そこには、もはや売り主と買い主というような固定化された関係性もなくなり、企業とお客様でもなく、同じ問いを共有する同志になることができる。

誰もがよく知るところであれば、吉田松陰の松下村塾のような。そして、福沢諭吉がつくり出した初期の頃の慶應義塾のような。

これが一番のナーチャリングの本義なのかもしれないということです。

予め、正解や答えを与えるようなスタンスではなく、問いを共有し、共に学び、共に歩み続けるということ。

つまり自分でさえ、その答えがわかっていないことを共に問い続ける姿勢というのが、結果的に一番のナーチャリングとなり、それがいまめちゃくちゃ重要な視点だなあと。

提供する側も何もわかっていないから、共に学ぼうよ、共に問い続けようよ、と。

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たとえば、わかりやすいところでいえば、大人気のPodcast番組「コテンラジオ」とかは非常に秀逸な事例だと思います。

彼ら配信者側も、決して答えがわかっているわけではない。だから、配信ごとに必死で勉強をされている。

そしてそこで学んだことをわかりやすく説明し、リスナーに対しても、共に考え続けましょうというスタンスで常に呼びかけている。

その誠実な姿勢が、リスナーの人気を圧倒的に得ている理由でもあるわけですよね。

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そもそも、企業や専門家など、提供する側も答えがわかっていないということは、もう完全にバレてしまったわけですよね。

そのことをまずは、素直に認めることからだと思います。

たしかに、インターネットが出てくる前までは、情報の非対称性がそこに明確にあったわけだから、消費者側は情報弱者として、企業の言われるがままに買わされていた。

でも、インターネットやSNSが普及して、そんな情報の非対称性が完全になくなり、情報が民主化したわけです。

そうなると、正解や答えがあることに対してはみんなが既に知っているし(だからインフルエンサーという存在も成立する)、正解や答えがない問題に関しては、その問題をメインに取り扱う企業の幹部や役員であっても、同様にわからないわけですよね。

それでも、まだ企業側に情報の非対称性、その優位性があるように振る舞おうとするから、消費者側からも「ダウト」と言われてしまう。

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そうではなくて、これからは、「学び続ける姿勢、問い続ける姿勢」みたいなもの、大事にするべきで。

そこにある「誠実さ」に対して、消費者側から評価してもらうしかないのだと思います。

具体的には、知っている人間が偉そうに振る舞って、知らない一般消費者に対して教えてあげるというような態度ではなくて、そもそも私たちも知らないしわからない、でも知りたいしわかりたい、その結果としてよりよく生きたいし、そこで得た仮説をもとに、より良い未来を次世代に手渡していきたいのだ、と。

「だからこそ、共に学ぼうよ」という開かれた姿勢が本当に大事になってきているなあと感じます。

そして、そうやってお互いに楽しみながら誠実に、そして、夢中になって学び合ってきて、ふとしたきっかけでうしろを振り返ってみたら、その歩んできた道、それ自体がまさにコンテキストの共有になっていて、ナーチャリングが成立していた、そんな状況が理想的なんじゃないかと思うのです。

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そして、それを共に追い続けていくためには、継続的に繋がり続けることが必須となる。

「企業が答えを提示して、消費者がそれを受け取るだけ」という話であれば一方通行かつ、正解が変化したタイミングだけ、お互いに連絡を取り合えば良かったわけだけれども、答えがわからない以上、そのようなつながり方はもう不可能で、もっと日常的かつ継続的につながり続ける必要がある。

日々、自分が学び続けていること、問い続けていることをお互いに発信し合って、それを無理のない範囲で共有し合う必要がある。

そのためにこそ、「コミュニティ」というものが必要であることはまちがいない。

今、広く語られているコミュニティ文脈の重要性というのは、まさにここにあると僕は思っています。

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もちろん、その継続性を担保するために、テキストや音声、そして写真や動画などなど、幅広くメディアを横断的に用いて、お互いに意思疎通をする必要があるんだろうなあと。

最後に繰り返しますが、どうしても企業や団体は、無知蒙昧な庶民に対して、啓蒙的な態度になりがち。そして、そうやって立場を固定化したほうが企業側が楽であることも間違いないでしょう。

でもそこで、グッと踏みとどまって、在野で共に学ぼうとする姿勢。上から与えるのはなく、対面で教育をするわけでもなく、同じ方向を向き、共に学び、歩み続けること。

そのほうが、一緒に問い続けることができるはずです。このスタンスがいま本当に大事だなあと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。