この時期の飲み会に行くと、2020年の1月1日から始めた「10年間の禁酒」について触れられることが本当に多いです。
「それまで毎日浴びるように酒を飲んでいて、そこから一切酒を飲まなくなった世界というのは、どんな景色?」というふうに問われることが多いのですが、それはいくら口で説明してもまったく伝わらないよなあと思います。
「言葉で説明してよ、ブロガーでしょ!」みたいなふうにも言われるんだけれど、どれだけ説明しても、こればっかりはやっぱり体験しないとわからないと思う。
そして、きっと世の中の大半が、こんなことばかりなんだろうなあと思います。
体験したものだけが見えている、別世界がそちら側に存在することはときに真実で。自分の身体を通して、体験した者にしかわからない別世界というのは、明らかに存在している。
ゆえに、他者に説明ばかりを求めていないで、自分で思い切って身を削って(身銭切って)体験してみるって、本当に大事な時代に突入してきたなあと思います。
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ただし、だからといって、別にこっち側をぜひとも体験して欲しいとも、まったく思ってはいません。
今度は「じゃあ、体験したくなるように勧誘してみて!」みたいな言い方をされることもあるんだけど、僕は全く勧誘したいとは思いません。
「あなたの人生、あなたの好きなように生きてください」であって、それ以上でも以下でもない。
少々蛇足ではありますが、なにゆえ、ひとは、良いものであれば勝手に勧誘してもらえると思っているんだろうかといつも不思議に思います。
その、待ちの姿勢は、あまりにもSNSやYou Tube、AI社会に毒されてしまった姿勢ではないかと。
でもいつの時代だって、自分から始めないと、自分にとって本当に良いものなんて絶対に巡り会えないことは間違いない。
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また、僕自身、今の禁酒の状態が自らにとって快適だからという理由で、この自分を是が非でもキープしたいとも、別に思っていなかったりもします。
もちろん、自分で決めた10年間のという期間は必ず達成したいという目標ではあれど、いつも僕は自分を通した「変化」を体感したいと思っていて。
それは、最近までずっと続けてきた4年間の無拠点生活なんかもまったく同じなんです。
最近は「なぜ、無拠点生活をやめたの?」ともすごくまわりから聞かれるけれど、それはある程度最初に見込んでいた「変化」、その振れ幅のようなものを、身体的を伴った形で強い実感を得ながら、自ら把握することができたからです。
そして、次の変化に対して徐々に興味関心が移り変わってきているからでもある。
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この点、10年間の禁酒生活も、無拠点生活もどちらも始めてみようと思ったきっかけは、 2019年当時の僕が、この人は本当におもしろいなあと感じるそんな人々の共通点を探ってみたところ、みんな「自分だけの実験」をしていると気づいたことが大きなきっかけでした。
それは思考においても、身体においてもまったく同様で、彼らは流行とは無縁の場で、自分と対峙しながら何かしらを実験をしてる。
それは、誰もが体感したことがある感覚でいうと、子供のころ「この先には何があるんだろう?」と目を輝かせながら、寄り道して帰ったときのあの感覚なんかとても近いような気がしています。
やっぱり僕は、そんなふうな好奇心を抱いて、常に「実験」をしているひとたちが好きなんだろうなあと。
一方で、そこに何か社会的な「べき論」に、眉間にしわを寄せながら対峙をし、自らの暮らしや仕事を置きにいっているひとは、たとえ全く同じことを実践していたとしても、ぼくは全く興味を持てない。
だからなのか、世間一般のひとが信じているように、取り組む対象それ自体に客観的、形式的に正解や不正解、または「イケてる・イケてない」などの客観的な基準が最初から存在しているわけじゃないとも信じています。
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たとえば、わかりやすいところでいくと、近年多くの社会人が手を出し始めてブーム化している茶道とか華道とか、大人の手習いの類いなんかもそう。
本人が自らその「実験」を楽しんでいるなら素晴らしいなあと思うのだけれど、そうじゃなくて、おしゃれとかハイソとか教養溢れる感じとか、そうやってただ置きにいっている場合には、なんだか違うなと思ってしまう。
言い換えると、まったく同じことに取り組んでいたとしても、自らの身体性というフィルターを通して、実験している人の話は、めちゃくちゃ興味が持てる一方で、そうじゃないひとの話は本当に退屈だなあと感じてしまう。
僕はいつだって、「あなたはそれを実験しているんですね…!」という感動のほうに興味があって。
つまり、それは「あなたはどんな問いを立てて、いまその問いを探求しているんですか」ということと同義でもあるかと思っています。
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これは本当によく誤解されるんですが、僕は決して何か「より善い安定」みたいなものを求めているわけではないんですよね。
もちろん「より善い生き方とは何か」というのは常に自らに対して問い続けていますが、それは、その正解や答えのようなものを発見して、そのより良い状態、それをキープし続けることではない。
たぶん、そのような目標が、個人における場合は「平穏」であり、社会における場合は「平和」ということになるのだと思うのですが、それは、一方で強烈な「危うさ」も持ち合わせるなあと、最近は強く感じます。
なぜなら、常にそこには「平和」という高いハードルが存在して、そのハードルと異なる場合、その落差が今の自分のモチベーションや幸福度を低めてしまうことにもなる。
さらに、その圧倒的な届かなさのようなものが「劣等コンプレックス」にもつながってしまい、他者攻撃にも向かい、結果的に一番遠ざけたいと思っていた戦争状態に突入すると思うからです。
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そうではなく、僕は森羅万象に対して、万物が流転し諸行無常であるこの世の中の、「変化」そのものを楽しむ姿勢を獲得したい。
それはポジティブなことだけではなく、ネガティブなことに対してもそうです。今の世界情勢から考えても、今後さらなる戦争や大災害、疫病や経済破綻などなど、次から次に何が起きても全くおかしくない。
それでも、いつも常に常にその渦中にいる自分自信を観察しながら、何が起きてもそのなかで「実験」をし、「安定」よりもその「変化」を楽しんでいれば、不幸になることはないはずで。
『方丈記』における鴨長明なんかがまさにそうだったようにです。
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これを現代的に言えば、現実世界に存在している自分というアバターを通して、世界自体を体験をしながら、ゲームの外側にいる「私」が観測するような。
しかも、それというのは意識だけではなく、身体性から感じ取れることであることが非常に重要かつ、これからのAI時代に、本当に大事な視点だと感じます。
最後に、この点に関連して、以前もご紹介したことのある養老孟司さんの自伝本『なるようになる』から、AIと人間の対比について語っている部分から、少しだけ今日の話に関連する部分を引用してみたいと思います。
AIはすでにある情報を処理することが得意で、その面での能力は人間をとっくに超えているから、そういうことはAIにまかせて、自分の身体を使って価値を生みだすことなど、AIにはできないことを発見していく生き方も見直されていくでしょう。 人にあって、AIにないものは何かと言うと、体なんですよ。AIは体がないから、どんどん突っ走る。でも、人の体っていうのは時速一〇〇キロメートルでは突っ走れない。限度があります。一日で歩ける距離なんてたかが知れている。そこらあたりのリミットをぼちぼち考えたほうがいい。 コンピュータが学習して、人間が学習しない世界になってはしょうがない。
この視点はマジでこれから大事になると思います。
身体性の成約を飛び越えた両極端というのは、もうAIがすべて担ってくれるようになるわけですから。
だったら、人間ができることは、その身体性を通した、ほかでもないこの「私の実感」を大切にすること。そして、その身体の圧倒的な限界、その成約の中での創意工夫や、成約における「ままならさ」をあるがままに楽しむ姿勢にあることは間違いない。
つまり、身体の限界に打ちひしがられるわけではなく、その振れ幅からの変化それ自体に、価値が移り変わっていくはず。
僕らはもう、それを一番の拠り所として、信頼しながら生きていくしかない。これからの時代を生きる人間が、決して忘れてはいけないことだと思います。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。