最近よく思うのは、各人の初々しい物語の「後の世界」、そんな世界を共に歩むためのコミュニティをつくりたいなと強く思っています。

夢を抱えて全力疾走をし、すべてのエネルギーを注ぎ込み、何かを成し遂げようとする。

しかし、どこかのタイミングで必ず立ち止まる瞬間は訪れる。

そのとき、喪失感や空虚感を感じたとき、ひとつの居場所となる空間をつくれたらと考えています。

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これは決してシルバー世代だけの話ではなく、なにかに全力で取り組んだら必ずやってくることだと思うんですよね。

あの大谷翔平選手にだって訪れる。無関係な人なんていない。そして、現代は、それを何度も繰り返す人生が一般的だと思います。

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この点、『村上春樹 雑文集』という本の中で、今でも強く印象に残っているフレーズがあります。

それがどんな内容だったかと言えば、村上春樹さんが小説で語ろうとしていること、その要約についてのお話。

以下で本書から少しだけ引用してみます。

僕の小説が語ろうとしていることは、ある程度簡単に要約できると思います。それは「あらゆる人間はこの生涯において何かひとつ、大事なものを探し求めているが、それを見つけることのできる人は多くない。そしてもし運良くそれが見つかったとしても、実際に見つけられたものは、多くの場合致命的に損なわれてしまっている。にもかかわらず、我々はそれを探し求め続けなくてはならない。そうしなければ生きている意味そのものがなくなってしまうから」ということです。


この感覚は、とてもよくわかるなあと思うし、きっと多くのひとにも手触り感ある話。だから、これだけ村上春樹さんの小説が売れているということでもあるかと思います。

「運良く見つかった、でもそれは既に致命的に損なわれていた」そんなときに帰って来られる風景をつくりたいなと思うのです。そんなときに、後ろからそっと肩に手を置くような感覚として。

それは、過度に気を遣われるわけでもなく、共におだやかな時間が過ぎ去っていくような空間として、です。

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この点、小説や映画などの物語というのは起承転結によって英雄譚を描けるし、空中庭園のようにふわっと浮かび上がらせることもできる。

そして美しい物語が終われば、エンドロールも流れるわけです。

ただ、実際の人間にはそのあと再び淡々とした日常が続いていく。フィクションに慣れすぎた僕らが、どれだけハレとしての物語を味わってみても、必ずケとしての平凡な日常はやってくる。

中年危機のような話もきっとここにつながっているんだと思うんですよね。それに気づいたあとの時がむしろ、これからの人間にとってはメインの物語なんじゃないかと思います。

しかし、多くの人々がそのときの喪失感や虚無感に耐えられない、耐える場もないのがまさに今。

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だから、今の世の中に足りないものは、この虚無感や喪失感をケアし合い、ともに歩む空間だと思うんですよね。

いうなれば、英雄譚としての冒険がおわったあとの、そのあとの世界を描きたい。

逆に言うと、もうすでに表の世界においては、魅力的な英雄譚や物語の誘い、そんな入口は、いっぱい用意されているわけだから。

チャンスは、本当に誰にでも平等に開かれている。

これまでの人類の歴史というのは、この英雄譚を万人に平等に開かれたものにするための戦いの歴史であったとも言えそうです。

でも今は、自ら起業するに限らず、スタートアップに参加したり、ユーチューバー、AIなどの新技術、地方移住などなど様々な人生の一発逆転は存在している。

そして僕は実際に、それにぜひとも挑戦してみたほうがが良いなとも思う。

そのような英雄譚を若い人ほどちゃんと一度は取り組んでみたほうが良い。もちろん現代は、それは決して若い人の特権ではなく、年齢や性別なんかも関係ない。

男性に限らず女性であっても、50代や60代であっても、新しい英雄譚の物語はいつでも始められる。ちゃんと、熱量高く行動することはいくつになっても尊い挑戦です。

というか、村上春樹さんが書いているように、そのことに取り組まざるを得ないのが「人生」でもあるわけですよね。

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で、その物語を辿ってみて見つけるわけです、致命的に損なわれている”何か”を。

そして、そこから戻ってきたあとの日常の受け入れ方が現代の一番の課題であり、誰も目を向けていない課題点でもあると思います。

ものすごくわかりやすく言えば「王子様とお姫様は幸せに暮らしましたとさ」からの平凡な日常。そこから離婚してしまう結末は、あまりにもったいないなと僕は思う。

大恋愛の仕方はマンガやテレビで描かれていて知っていても、そのあとの生き方を僕らは知らない。

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これは、あまり詳しく語るとネタバレになってしまうのですが、映画『ファーストキス』も主人公は45歳の女性であり、そんな女性が既に死んでしまった若いころの旦那さんに会いに行くという内容です。

そこで気がつくのは「過去は変えられないけれど、人生は変えられる」という真実。

うまくいえないのですが、その物語のあとの余韻のような感覚を共に味わいたいなあと思うのです。

そして、それが色褪せることがないように、普段の日常をお互いに言祝ぐことはできるのではないかと思います。

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で、繰り返しになりますが、たぶんこれからの人間にとっての人生のメイン、その比重は圧倒的にこっちのほうが長くなるはずなんですよね。

40代までは、誰もが一通り他者の人生を模倣し、人並みに仕事や家庭も手に入れる。そのあとに続く何気ない日常の取り組み方のほうが今は大事だなあと思います。

それは人生100年時代であることもそうですし、テクノロジーがドンドンと進化して、昔なら1人の人間の一生程度だったことが、あまりの変化のスピードゆえに10世代分ぐらい体験するのが僕らの世代。

始まった物語はすぐに終わるし、終わった物語は、またいつか始まっていく。しかし世界は、この物語の間の「生きがい」みたいなものを、まったく提示することができていない。

だからこそ、『ファーストキス』のような映画も、今これだけ反響が大きいのだと思います。この映画も中年危機から、過去を再解釈する話だと捉えれば、とても納得感がある。

就職氷河期世代に対して、決して派手ではないけれど、ささやかな祝福なんだよなあと思います。

あの映画は、終わりでもあり、始まりでもあるし、始まりでもあり、終わりでもある。なんでこの映画が「ファーストキス」というタイトルなのかも、最初に見終えたときは結構疑問だったんだけれど、今考えるとよく分かるなあと。

中年の終わりと始まり、始まりと終わりを本当に上手に描いている。

そして、それが坂元裕二マジックでもあり、ちゃんと全世代にとって共感されるものとしても描かれてもいる。つまりそこに、明確な時代性なんかも反映されているわけです。

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まだ映画を見ていない方々にとって、もっとわかりやすい感覚で言えば、たとえば、現代を生きる僕らは、中高生のあの6年間を、非常に輝かしい一瞬としての認識している。

あの輝かしい時代はもう一生戻ってこないし、どれだけ後悔してみても人生において1回だけ。そして、そのあとの大人の人生のほうが圧倒的に長い。それを既にわかっている。

それと似たような構造が、人生全体においても存在しているなと。

普通に生きていれば、30代から40代ぐらいに一回ガクンと落ち込む。そこから新たな挑戦を通じて、2周目に入ることも問題はないと思うし、年齢関わらずドンドンと挑戦して欲しいとも思う。

でも、その新たな物語を通じて、また必ず「喪失感」にも直面し落ち込むわけです。

つまり、物語を始めるというのは、いわばこの喪失感や虚無感とセットであり表裏一体。にも関わらず、この落ち込みに対してのケアが社会として全く用意されていないなと思います。

なぜなら、大体1人1回で、2回目の時にはみんな寿命を迎えて死んでいたから。終身雇用というのはそういう話だった。

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でも、これからの時代は、もうそうじゃないわけですよね。

だとしたら、その喪失感の瞬間を、応援し合うことができること。しかも、応援するというイメージで思い描くような、安易にセカンドキャリアを提案するわけでもなく、何か具体的に行動をするわけでもない。

何もしないで、ただ共にいる。後ろから肩に手をそっと置くぐらいの感覚の寄り添い方。

映画『夜明けのすべて』もまた、その静かな優しさをエンドロールの中で描いていました。あのエンドロールに続く延長の世界線。

きっと、それが静かな慈愛になり滋養となり、自然とケア的なアプローチから自己を回復し、さらに自分がケアする側にも回っていける。そうやって、次にバトンがまわっていき、ペイ・フォワードされていく。

他者を意図して変えようとしない、お互いの「喪失感」を受け入れて共にいる。それが結果的に、みんなにとって生きやすい世の中になるんじゃないか。

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そんな押し付けがましくない、でもちゃんと助けてもらったという体験や実感がベースとしてあるからこそ、お互いに嫉妬したりもせず、素直に応援し合える関係性を生み出せるはずなんですよね。

そんな場だからこそ「行って参ります」と「お帰りなさい」の関係性がしっかりとループし、循環するんじゃないのかなあと思っています。

この「何度も繰り返す」というところにしっかりと寄り添える、コミュニティを作っていきたいなあと思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。