昨日、『お金2.0』や「世界2.0」を書かれた佐藤航陽さんの新刊『ゆるストイック ノイズに邪魔されず1日を積み上げる思考』を読み終えました。

https://amzn.to/41wG5ip

何が「ゆる」の部分なんだろうと思って興味本位で読み始めたのですが、それは「寛容さ」のことであり、ほかは至ってシンプルなストイックのお話でした。

このブログの文脈で言えば、過去に何度もご紹介してきた「リベラル・アイロニスト」にも近い考え方だと感じます。

ちなみに「リベラル・アイロニスト」とは、哲学者リチャード・ローティが提唱した概念で、客観的な真理の存在を疑いつつも、自由や民主主義といった価値観を大切にする立場のことを指します。その立場に対する批判なんかも含めて、詳しくはぜひ下記の記事を改めて読んでみてください。


ーーー

現代のように、多様性がすすみ、お互いがわかりあえない分断が広がる世の中においては、個人の処世術として、こうならざるを得ない世の中だよなあと、本書を読んでみて改めて強く実感します。

今の時代感を捉えたうえで「他者には寛容になり、自らは淡々とそして粛々とストイックに人生を生きよ!」という提案は本当にそのとおりで、とても良い本だと思います。

みなさんがよく知るところで言えば、アドラー心理学の「他者の課題」、つまり「嫌われる勇気」にも通じる考え方でもあります。

あとは以前もご紹介した、為末大さんの「熟達の道」にも通じそう。


つまり、宮本武蔵のような考え方にも近く、一つの道を極めることで自己を鍛え、余計なものに振り回されない姿勢を身につける考え方。

まさに「信ずるは己のみ」であり「無駄なことに時間を使わない」「目標に向かって淡々と努力を積み重ねる」ことの大切さをとても丁寧に説いてくれています。

ーーー

では、本書の中では、具体的にはどのように語られてあったのか、少しだけわかりやすい部分を本書から引用してみたいと思います。

本署では大谷翔平選手、藤井聡太名人などが理想的な姿だとされていて、以下のように語られてありました。

彼らは決して自分の考えやスタイルを世の中の「正しさ」として押し付けたり、他人と論争することに時間を費やしていません。彼らは、ただ自分自身の目標に向かい真っ直ぐに取り組んでおり「自分は自分、他人は他人」を徹底しています。

もし質問されれば答えますが、それが万人にとっての正しい道であるようには語りません。「ゆるストイック」なスタイルは、他人との考え方や思想の違いに過度に反応せず、他人を「論破」しようとせずに、自分の人生の時間を自分のために使うというものです。


ーーー

ここが本書の「ゆる」の特殊性であり、あとはもう、みなさんが想像しているイメージどおりのストイック像そのもの。

ストア哲学そのものでもあるし、マルクス・アウレリウスの『自省録』の話も後半にはしっかりと出てきます。

で、繰り返しにはなりますが、現代は賢い人ほど、こういうスタンスになっていく世の中だよなあと思うのです。

「寛容さ」というアイロニカルな没入を持ち出して、わかりあえない他者に対して、余計なアドバイスや口出し、おせっかいなんかもしない。

相手には、相手の観ている世界像があって、その世界像の違いは埋め難く、一生平行線を辿ることは避けることができないとハッキリと悟る。

そして、そんな他者が集う世の中や世間に対して文句をつけるのは、無駄にアテンション持っていかれるだけで、コスパもタイパも悪い。

だから、そっちは無視して、ゆるく寛容になって、自分の目指したい道を淡々と目指そう。

そして、自分は自分の信じる道を貫いて、相手の思想信条には一切関与しない姿勢を保持しようというスタンスになっていくのも当然です。

ーーー

ある意味では、現在のトランプ政権の外交なんかも、まさにそんな感じですよね。

「お前らの国は、お前らでやれ。アメリカも、おまえらの歴史や文化的な背景にはもう口出しをしない。ただただ、経済的な利益をもとに、お互いにディールをしよう。もし、邪魔をするなら徹底交戦するけどな」みたいなイメージです。

これって、今のような分断と格差が進む社会状況においては、本当に最適解だと思うのです。

逆に言えば、誰もが「ゆるストイック」の生き方が、できてしまうのが現代の特殊性でもある。なぜなら、もはや「他者」は不要だから。

AIなんかも出てきて、本当に他者と一切関わらずとも生きていける世の中になっていて、ストイックにひとり何かを突き詰めて、ひとりで事業拡大さえも行える世の中ですから。会社も不要。

何か大きなことをしたくても、もう他者とわかりあうことは必須でもないし、その必要性もないんです。

ーーー

でも、この世界線を続けていくと一体どうなるのかも、同時に考えたいなと思うのです。

より一層、世の中の分断と格差が拡大してしまうだけ。そして、お互いのわかりあえなさも募るだけ。

これがわかっているひとは、それさえも無視してストイックに突き詰めるのだろうけれど、それが理解できないひとたちは、より一層、言い争いや陰謀論、怠惰な生活に落ち込んでいく。

そして気づけば、そのような怠惰な人々を煽る革命を狙う人々が世の中に溢れることにもなる。そして、ポピュリズム政権が世界中で雨後の筍のように現われてくる。実際、既にそうなりつつありますよね。

ーーー

僕は、そうじゃなくて、どうやってそんな絶対にわかりあえない「他者」と共に生きることができるのかを、考えたいなあと思うのです。

「熟達」だけではなく、「成熟」にこだわる理由もまさにここにある。

吉本隆明の「頂きを極めることで満足せず、非知に着地する」という話に、ずっとこだわる理由もここにある。


冒頭でも言及した、アドラーの思想や「嫌われる勇気」だって「他者の課題、課題の分離」が重要なポイントであることは間違いないけれども、でもそのうえで「共同体感覚」と「貢献感」も同じぐらい重要な概念のはずなんですよね。

言い換えると、「共同体感覚」が、アドラーの思想の大きな歯止めとなっている。

つまり、両者はセットで語られるべきことであって、「他者の課題」や「課題の分離」の部分だけを、都合よくつまみ食いしちゃいけないなとも思うのです。

ーーー

そして僕は、共同体感覚の方を重視していきたい。

わかりあえない他者とも、どうやって共同体感覚を抱きながら、共に生きることができるのかを問い続けたい。

でも、そのためには、最初からゆるゆるとしたなあなあの世間やコミュニティだと不適切で、ソレだとすべてが「世間の空気」に支配されてしまう。

コミュニティの成員それぞれが「課題の分離」をしっかりと身につける必要もある。まさに原始仏教の「犀の角のようにただ一人歩め」という話だし、それゆえにサンガのようなコミュニティもしっかりと築くことができるはずなんですよね。

ゆえに、個々人がストイックに取り組んで「熟達」を目指すことは何一つ間違っていないし、それは必ず、誰もが通過する必要がある点だとも思います。

ーーー

そのうえで、「他人は他人、自分は自分」として「寛容さ」という言葉を隠れ蓑にして、わかりあえない他者は眼中にないと切り捨てるわけではなく、そんな絶対にわかり合えない他者と共にどうやって生きていくのか、その「成熟」の道を探りたい。

やっぱり本来の目指すべき到達点、その幸福は「目的性」の中ではなく、「真の共同性」の方にあると思うから、です。


個人の「熟達」の道を極めることよりも、さらに厳しい道だとは思いつつも、でも熟達だけでは幸福への道は程遠いと思ってしまうんですよね。

どれだけ個人の「熟達」の世界に到達できても、結局「FIRE」のような惨めさや哀れさに苛まれるだけだと思ってしまう。

だからあのブッダだって、自ら悟ったあとに、それでは飽き足らずに里にも降りたわけですから。

ーーー

個人としての熟達だけで満足するのではなく、成熟した共同体を築くためにはどうすればいいのかを、引き続き考えていきたい。

決してわかり合えない者同士が、それでも共に手を取り合って、助け合っていくためにはどうすればいいのか。

昨日の村上春樹さんのお話で言えば、僕にとっての「生涯において何かひとつ、大事なものを探し求めている」はきっとこのあたりにあるはずで。


そして、運良く見つけられたとしても、きっとそれは致命的に損なわれてしまっているはずなのです。それでも、それを追求しない限り生きる意味がないと思ってしまうことでもある。

だからこそ、引き続き探求し続けていきたいなと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。