先日、鹿児島県に行った際に「鹿屋航空基地史料館」を訪れました。

鹿屋航空基地史料館は、大日本帝国海軍鹿屋航空基地時代から現代の海上自衛隊に至るまでの写真や文献、実機(復元)等を展示することによって、戦争・神風特別攻撃隊の実態、現代海上自衛隊の装備の変遷・活動等を明らかにし、それによって国家を守ることの意味が理解されることを企図しているそう。(Wikipedia参照)


とても価値のある歴史的な史料の展示だなとは思いつつ、僕には少し右翼要素や軍隊賛美が強すぎました。

とはいえ、途中で入り口まで引き返すほどの抵抗感があったわけでもなかったですし、展示自体は最後までしっかりと見終えたいと思ったので、自己の防波堤代わりと言いますか、精神のバランスを保つために、途中から映画『風立ちぬ』のサウンドトラックを聴きながら、展示を見続けました。

そうすると、ものすごく心が穏やかになったのです。

改めて、人間の聴覚が担う役割は非常に大きいのだなと発見しつつ、何よりも驚いたのは『風立ちぬ』という映画自体の絶妙なバランス感覚でした。

今日は、いまさらながらそんなお話を少しだけ。

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『風立ちぬ』は公開当初、いろいろな意見が飛び交っていたように記憶しています。

僕らは完成したものを観るだけだから、それに文句をつけることはとても簡単です。

でも、「鹿屋航空基地史料館」に展示されているような内容を、アニメーション映画にしようとすることって、本当に絶妙なバランス感覚のもと、針の穴に意図を通すような作業を経て、大衆映画に昇華されていたのだなあと改めて気付かされました。

それは「日本人の美しい愛国精神」というような右翼思想でもなく、わかりやすく「反戦を叫ぶ」左翼思想でもなく、強いて言えば、自然信仰に強いジブリ思想。

その元となった歴史的な史料を改めて自分の目で眺めてみると、とんでもない偉業だったのだと、今になってものすごくハッとさせられました。そして、当時の自分は何もわかっていなかったのだと強く恥じました。

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リバースエンジニアリングではないですが、完成したものを分解したときに初めて、その素材の扱い方の妙に気付かされることってあるかと思います。

もちろんこれは、宮崎駿監督ひとりの力ではなく、プロデューサーの鈴木敏夫さんや、音楽を担当した久石譲さん、そして各ポジションを担ったプロフェッショナルの方々のそれぞれが携わったことによるバランス感覚が生み出した賜物だったのだと思います。

本当に「曲芸の綱渡り」を見ているような感覚に陥りました。

ではなぜ彼らは、そんな曲芸を成し遂げることができたのか。本当だったらそんな危うい橋を渡る必要なんてなかったと思います。

しかし、「それでも、残す必要がある」という使命感が根底にあり、明確に政治や信仰から距離を置いたことが大きな理由だったのではないかと想像しています。

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繰り返しますが、完成した作品だけを観て、それを思想的な立ち位置(ポリコレ的な観点)から、文句をつけることは本当に簡単です。

でも、それがいかに愚かなことなのか、今回改めて強く思い知らされました。

創作物の「素材を知る」って本当に大事だなあと思います。ジブリ好き、特に『風立ちぬ』が好きなひとには、ぜひ一度訪れてみて欲しい場所です。その際は、イヤホンもお忘れなく。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにも今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。