昨夜、Wasei Salon内で「安楽死」について考える対話イベントが開催されました。

本当にむずかしい内容であり、答えのない問いです。

この点、一般的に安楽死を選ぼうとするひとたちの意見のひとつに「まわりに迷惑をかけたくない」というものがあります。

具体的には「子供や家族に迷惑をかけたくない」と。

この言葉に対して違和感を感じるひとはきっと少ないと思います。むしろ、そこに共感を示し、とても美しい配慮だと感じる場合が多いはずです。

「でも果たして本当に、そうなんだっけ?そもそも迷惑ってなんだ…?」ってことを、今日はこのブログでも少し考えてみたいです。

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子供のころから僕らは、学校の道徳の授業などを通じて、「他人に迷惑をかけてはいけません」という規則をひたすらに口酸っぱく教えられます。

町を歩いていても、そのような標語やポスターが至るところに貼られているのを見かけますよね。

だからこそ、ときには自分自身を押し殺してでも、まわりに迷惑をかけないようにと努めてしまいます。

安楽死というのは文字通り、その自らを「押し殺す」という方法において、一番最後の手段だと思うのです。

「他人に迷惑をかけたくないから、私の意識があるうちに死なせててくれ」と。

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これまでの人生において、他人に迷惑をかけてこなかった自分自身に対して誇りを抱いてしまっているひとは、あまりにも多い気がしています。

なぜなら、それが他者や社会から「褒められる」行為だったから。

他者に迷惑をかけなければかけないほど、周囲からの評価は高まり、それによって社会的地位も上昇していく。

それこそが私自身のアイデンティティとなってしまっているのだから、他者からの介護を必要としてしまったら、それはもう私が私ではなくなってしまうと感じるのも当然です。

だからこそ、他人に迷惑をかけて、そのアイデンティティ(美意識)を崩壊させてしまうぐらいだったら、死んだほうがマシだという判断なのでしょう。

そんな言葉にはできないような呪いが、たぶん日本人全員の中にある。もちろん、僕の中にも存在しています。

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一方で海外では、人間が生きていれば、他人に迷惑をかけることは当たりまえなのだから、「他人に迷惑をかけてはいけません」ではなく「迷惑をかけてくる他者に対して寛容になろう」と教えているらしいです。詳しくは以下の山口周さんのVoicyを聴いてみてください。

参照: 呪いについて その2 | 山口周「ウラヤマグチシュウ」/ Voicy - 音声プラットフォーム

「じゃあ、日本も海外と同じように、他者に対して寛容になればいいじゃないか」といえば、話はそう簡単ではないのも実情です。

なぜなら「他人に迷惑をかけてはいけません」という価値観が、広く日本人のなかに蔓延しているからこそ、街中の治安は良く、電車は時間通りにやってきて、トイレも非常にキレイなわけですよね。

世界でも稀に見る「日本という国の奇跡的な住みやすさ」を実現しているのがまさに、国民全員にかけられた「他人に迷惑をかけてはいけません」という呪いの為せる技でもあるわけです。

つまり、日本という国の唯一無二のアイデンティティは、この呪いが生み出している賜物でもある。ここは完全にトレードオフの関係なのでしょう。完全に長所が短所の裏返しとなっている。

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とはいえ「他人に迷惑をかけてはいけない」という発想があまりにも行き過ぎてしまった結果、無差別殺人に及ぶような選択肢を選び取る人々も次々と現れてしまう。

彼らがもう少しはやく違う方法で、他人に迷惑をかけていることができていれば、そうはならなかったのかもしれません。

つまり、社会の寛容さと秩序のバランスの問題なのだと思います。

では、わたしたちはどこまで社会の秩序を追い求めて、それと引き換えどこまで他者に対しての寛容さを失っていくのでしょうか。

これは本当に答えのない問いだと思います。僕らの世代が周囲の人々との開かれた対話を通じて、それぞれがしっかりと考えていかなければいけないことだと思います。

今日のお話がいつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても何かしらの考えるきっかけとなったら幸いです。