この問いに対して、さまざまな理由があるとは思いつつも、ひとつはそこに「再現性があるから」だと思います。

「どうすれば人は痩せられるのか」に個体差はあれど、ある程度の明確な答えがあるように、「どうすれば人を盲信させられるのか」にも、ある程度明確な答えや方法論は既に確立している。

人間ひとりひとりの思考回路が異なっていても、人間という動物の思考の傾向やバイアスは間違いなく存在していて「こうやってアプローチしていけば、盲信する人間をつくりだすことができますよ」というノウハウはもう解明されてしまっている。

それをうまく悪用されてしまった結果、世間に生まれてくるのがカルトや全体主義なのだと思います。

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これは、宗教の勉強をし始めると、より一層強く理解できるようになります。

さらに自分が何かしら会社組織だったり、コミュニティ運営などをする側になると実感値としてそれが本当に手に取るようにわかってくる。

これは、教壇側に立っている先生が、学生たちひとりひとりの行動が手に取るようにわかるようになることと、とてもよく似ているかと思います。

人間という生き物は、普段どんな悩みを抱えていて、何から解放されたいと願っているのか。

そして、彼らから何を奪い、何を捨てさせて、何から距離を置くように仕向ければ、自分たちに都合よく操ることができるようになるのか。

それが本当によくわかっているこそ、この状況を悪用するひとたちがいつの時代も後をたたないわけですよね。

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でも逆に言うと、人間から何さえ奪わなければ、ひとは絶対に自己を見失わないのか、ということも次第にわかるようになってきます。

この点、花森安治はそれが「暮し」だと思ったからこそ、「暮しの手帖」を創刊しました。

参照: 私は何を「ケイベツ」させられているのか。

人間から「暮し」さえ奪わなければ、全体主義には流れないだろうと。そして実際に、そうなったのが過去70年ほどの日本だと思います。

でも今は時代が変わってきて、確かに「全体主義」には陥らなくなったけれど、今度は「暮し」が完全に消費と結びついてしまい、「暮らし」が資本主義の権化のようになってしまった。

花森安治が「暮し」を世間にちゃんと広げることができてしまったがゆえに、新たな弊害が「暮らし」の中には生まれてしまっている。

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この点、いま僕が思うのは、一部の人々が強く主張している「自分の頭で考える」ことを奪わないことが、今の時代における自己防衛の最善策なのだとは思うけれど、それだと少し解像度が低いかなと思っています。

より具体的には、自ら「問い続ける」ことを奪わないこと。

そしてもうひとつは、自らの「葛藤」を何よりも大切にすることです。そのうえで各人が自らの意志で決断し、実行していけるようになっていくこと。

参照: つまずいて転んでしまう「石ころ」のような葛藤こそが、私の道しるべ。 

とにかく、何かに盲信させたいと考える人々は、これらを奪って、必ず捨てさせようとしてくるから。

だからこそ、絶対にそれを奪いたくないし、絶対に奪わせたくない。

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人間の癖を悪用しようとするひとたちから身を守るためには、これだけは全員で守るという文化や価値観を醸成していければいい。

他者が「捨てちゃいなよ」と言ってくるものを「それだけは絶対に捨てるんじゃない」と呼びかけ合うこと。

僕は医者ではないからダークサイドに落ちてしまったひとたちをそこから救い出すことはできないけれど、ダークサイドに落ちてしまわないように、それらを死守するためのコミュニティであれば創り出すことはできると思っています。

自分一人では自己防衛が難しくても、お互いに呼びかけ合い、守り合うことはできる。

もちろん、このWasei Salonは、そんな場所として存在し続けたい。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。