「物ではなく、体験のほうが価値が高くなる」
近年、至るところでバズワードのように目にするようになりました。
物が溢れた結果、物の使用価値ではなく、何かを体験する価値のほう上になると。
それは、現代を生きる人間であれば、誰もが少なからず納得するところだと思います。
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しかし、体験は受け手の前提知識やリテラシーを常に要求してきます。
わかりやすい例を挙げると、たとえば「縁結びの神さまだから」という理由だけで出雲大社に足を運ぶのと、
古事記や日本書紀を読んで、神話についての素養を身につけてから、出雲大社に足を運ぶのとでは、全く同じ体験であっても、その体験価値は大きく異なる。
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一方で、物は購入して、そこに存在し続ける限り受け継がれる可能性を秘めている。
それは「未来の自分」に対してもそうですし、自分以外の他者に対してもそう。
高度経済成長期の日本で、「全集」が応接室などのインテリア化したことなんかは、とてもわかりやすい例だと思います。
親がその書籍の山の本来の価値を理解していなくても、その家庭で育つ子供たちがその本来の価値を理解する日がやってくるかもしれない。
受け継がれる可能性を秘めているのが、物の使用価値です。
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つまり、体験が重視されるようになればなるほど、自分が身銭を切った「等価交換」の一回性は強くなる。
つまり、使い捨てになる。
だからこそ、この「使い捨てである」という感覚を常に持ち合わせて、自己の体験価値を最大化するように心掛けなければ、ただのマーケティングの鴨になってしまう。
自分の信頼する誰かが「すごく良い!」と言って絶賛していても、そのひとと同じようなリテラシーを持ち合わせていなければ、効果は全く別物で、
「全然つまらなかったね」となってしまう。
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そして、ここからは完全に蛇足となってしまいますが、さらに最近よく思うのは、体験はそもそも自己の脳が「体験した」と認識しているだけに過ぎないということ。
「体験」という明確な価値を持ったものは、この世には存在しません。
だとすると、自分の脳が体験したと錯覚さえしてしまえば、そこには体験の価値が生まれているわけです。
それが最近では、ARやVRの向かう先なのだとも思います。
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これは言い換えると、自己の脳が"誤認"さえしてしまえば、本来自分がその体験から得たいと思っていた効果は得たと錯覚することも可能だと言うことです。
この効果をうまく利用したものが「潜在意識への刷り込み」なのでしょうね。
逆に言えば、本当に現場で体験することの価値というのは「自分の想定をはるかに超えたところにある」ということでもある。
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「これからは体験だ!」
そうやって、世の中の流れが大きく変化してくるときに、
「自分にとって体験とは一体どんなものなのか?」
今日のお話がそんなことを改めて考えてみるきっかけとなったら幸いです。