僕らは何か新しいことを始めようとするときに、どうしてもその「何か」によって得られる効果効能や成果のようなものを事前に予測し、それをお互いに求め合ってしまいがち。

「ああすれば、こうなる」が徹底的に突き詰められてしまった世の中だから、無意識のうちに、その予測される結果を互いに握り合うことが良しとされてしまっているのでしょう。

というか、その原因と結果が予測できているものだけが価値のあるものであり、素晴らしい企画であると信じて疑わないわけです。

でも果たして、本当にそうなのでしょうか。

今日はそんな問いについて、少しだけこのブログに書いてみようかなと。

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きっと、これからの社会では、更にAIの発達によってそんな「ああすれば、こうなる」で実現可能な「目的」というものが、より一層達成しやすくなっていくと思います。

もはやそれは人智を超えて、人間のこうなりたいという願望に対して、人間には理解不能なよくわからない回答が与えられて、疑いながらもそれを実際に実行してみると、あら不思議、その結果が本当に得られるという体験は増えてくるはずです。

でも、それって本当に嬉しいことなんですかね。

僕は、やっぱりひとっていう生き物は、それだけでは満足しないと思うのです。

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そう考えてくると、人の本来の喜びというのは「何が起きるのかはわからないけれど、サイコロを振ってみる」という方にあったんじゃないのかなと思っていて。

どうしても僕らは、サイコロを振ったあとの「結果の獲得」がいちばんの喜びだと信じて疑わないのだけれども、それってあくまで「客観的な理由」や「他者を説得するための理由」に過ぎないんじゃないのかなあと。

言い換えると、振りたいサイコロをふるための言い訳に過ぎなかったとも言えそうです。

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もっともっと根源的な欲求というのは本来、誰もが幼いころに体験してきたように、目の前の自然を観察するような感覚に近いはずなのです。

そこに、この自らの身体の動作によって干渉していきたい。

目指したい先、到達したい先なんてわからないけれど、あのときの僕らは自然を観察をして、私が世界に干渉することによって世界がどのように変化するのか、その変化自体のほうに興味があったはずなのです。

その対象が、目の前に存在する植物や虫だったのだと思います。そうやって、世界との摩擦をダイレクトに感じ取ってみたいその一心だったはずです。

アレをいま僕は「サイコロを振ってみたい感覚」と呼んでいる思っていただければ、きっとわかりやすいと思います。

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でも、ある時から僕らはそれはしなくなった。

一体、それはなぜなのか?

親や教師など、周囲に存在する大人たちが「それを終えたあとに、一体どうしたいのか」を口酸っぱく聞き続けてきたからだと思います。

「なんでそんなことをしているの?    どうしてそれがしたいと思ったの?    一体何を求めているの?」と。

そのうち、大人が「原因と結果」の話をしているのだとボンヤリと気づき始めて、その因果関係をちゃんと説明しない限りは、まわりは認めてくれないんだ、納得してくれないんだってことに気がつきはじめます。

これは決して大人のそのような問いかけが間違っているということではありません。

いや、むしろ大人のそのような結果の予測を求めてくる姿勢というのは、きっと圧倒的に正しいのです。

なぜなら、世界は、そのロジックが万人に対して説得力や納得力があるもの同士で強固につながっていて、それがより多くのひとに通じれば通じるほど、ヒト・モノ・コトが集中して集まってくるから。

そうすることで、単純にお金持ちにもなれるし、「生きる」にも困らなくなる。

だから、現在までの世の中では、そんな因果関係を上手なロジックでつなげられるひとたちが重宝されてきたわけですよね。

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でも一方で、いま残っているもの(問い)って、むしろその何が出るかわからないけれど、サイコロを振ってみたいと漠然と感じているようなそれぞれの感覚のほうにある気がします。

言い換えると、ひとりひとりがずっと胸に秘めてきた「パンドラの箱」のほうに価値が徐々に移り変わってきたように感じるのです。

「ああすれば、こうなる」ということが、私にはまったく予測ができない。でも漠然と私の無意識や魂がソレを求めていて、その箱を開けた瞬間、サイコロを振った瞬間に、立ち現れてくる世界との接触や摩擦のほうに無性に興味があるというようなもの。

鬼が出るか蛇が出るか、その先に何が待っているのかは本当に誰にもわからないということのほうに興味を惹かれるわけです。

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で、そのとき、いちばん大事になってくるのは一緒に振ってみようという「仲間」なんじゃないでしょうか。

それはきっと、家族でも友人でも同僚でもないはずです。

言い換えると、その結果として得られる可能性が高そうな未来の「成果(お金や影響力などの富)」という担保でつながった関係性ではなくて、これまでの「記憶」という過去の担保でつながった関係性でもない。

何ひとつ担保なんかが存在しなくとも「あなたが振ってみたいと思うなら、同じ船で漕ぎ出そう」と誘い合って、漕ぎ出せる関係性のほうなんじゃないのかなと。

強いて言えば、その今この瞬間に立ちあらわれてくる現在の担保、その過程自体を楽しみたいと思っているひとたち同士が集っているかどうかのほうが、きっと重要なんです。

そして、それはきっと何が起きても共に楽しもうとする姿勢であり、どんな事柄が顕現してこようとも、そこに喜びや楽しみを能動的に発見する能力の方が重要なのであって、それが途中で見捨てたりしないっていうお互いの安心感につながるのだと思います。

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普通だったら、他人と一緒にそんな危険な船には乗れません。

ただ、そうやって一緒に船を漕ぎだしてみようという関係性。その信頼感が、僕はこのWasei Salonの中には既に存在すると思う。

だから、ずっとこれまでフタをしてきたけれど、なぜかこのサイコロを振ってみたいという感覚を全力で大事にしてくださいと伝えたい。

今まで多くのひとが封印してきたもののほうが、価値が出てくる時代にこれからは変化してくるのは、もう間違いないことなのだから。

だから僕は、そのサイコロを振ってみたいと感じる感覚の方に敬意を表したい。

ひとりひとりがまったく異なる個体として、この私の魂が求めている方向性に忠実になることが、今この瞬間を生きているという実感を得られる「世界との摩擦」そのものでもあるはずだから。

そんなことを考える今日このごろ。

いつもこのブログを読んでくださっているひとにとっても今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。