最近、「同じ」と「違う」について、よく考えます。

なぜなら、現代というのは、違うものを必死で同じものだとし、同じものを必死で違うものだとしている世の中だなあと思い始めてきたからだと思います。

今日は、そんなお話を少しだけこのブログにも書き残してみようかなと。

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では、まずは違うものを同じものだとしている、わかりやすい具体例から。

たとえば、スーパーで売っているりんごなんかは、非常にわかりやすいと思います。

同じ産地・同じ品種・同じ大きさという理由から、本当はひとつひとつは全く別の個体なのに、すべてが同じ棚に並べられて、すべてを同じ「りんご」だとみなして、同じ価格として売られていますよね。

そんなのは当たり前じゃないか、と思うかもしれないけれど、ここに人間の理性や観念的な「同一性」の概念が働いている。

養老孟司さんふうに言えば、猫にはそれがわからない。

AのりんごとBのりんごはまったく違うもの。

A=Bという等式はそもそも成立しない。

猫にとっては、2つのりんごが目の前に存在すれば、どれだけ産地が同じで、価格が一緒だとしても、間違いなくAのりんごとBのりんごは違うものだと認識します。

だから「猫に小判」になるんだと、養老さんは言います。

「小判が魚に交換できる」という等価の概念を、猫には理解できない。

逆に言うと、観念の世界のりんご、つまりりんごのイデアと、現実のりんご、この世界にたった一つしか存在しないこのりんごが同じものだと理解して、この等価交換のような概念が自然と理解できてしまうのが人間という生き物であり、人間の理性や観念が為せる技なんだと。

より詳しく知りたい方は、新潮新書から出ている養老さんの『遺言』という書籍をぜひ読んでみてください。

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で、いまNFTの世界で起きていることは、これの真逆のことが起きているわけですよね。

つまり、まったく同じものを違うものだと言い張るようになったわけです。

本当はまったく同じデジタルデータなのに、違うものだというフィクションをみんなで共有しようという提案がまさにNFT(ノンファンジブルトークン)。

それぞれのPCやスマホ上に表示されているのは全く同じデータであり、違いはまったくないはずにも関わらず、人間の観念の世界に「ブロックチェーン」というものを擬制し、まったく違うものだとしてそれを捉えようとしている。

これってよくよく考えると、本当におもしろい現象だなと思います。

だって猫からすれば、どれも全く同じ画像データなわけですから。

じゃあ人間はなぜそんなことをするのかと言えば、そうすることによって、そこに何らかの「価値」が生まれるからですよね。

そして、この考え方が少しずつ普及していくと、本来は存在しなかった「本物」と「偽物」という概念までここに持ち込むようにもなる。

具体的には、価格がつかないコピー画像は偽物で、価格がつくNFTは本物だと。

いや、でも実際は、どれも本物だろうと。だってまったく同じデータなんだから。

人間だけがアレとコレは違う。「なぜなら〜」という御託を並べ始めるわけです。

そしてその共同幻想を共有した者同士で「たったひとつしか存在しない」という幻想を共有し、高値で画像を取引しているわけです。

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そんなことをモヤモヤと考えていたときに、先日、発酵デザイナー・小倉ヒラクさんがものすごくおもしろい問いの話をしてくれました。

それがどんな話かと言えば「活版印刷の登場以前と以後で、人間の『コピー』に対する概念は、それまでとは大きく変わったんじゃないか」という問いです。

つまり、コピー機ができたから、僕らの中に「そのままコピーする」という概念が生まれてきた。

そもそも、活版印刷が登場する前の人間にとって「同じ」という概念は、もっともっと違うものだったはずなのではないかと。

むしろ「同じ」ことを伝えるために、積極的に「違い」を用いて伝えていたはずで。

それは自分の中に存在する「情報」のコピーを提供しようと思えば思うほど、語彙や比喩を変えて伝えようとするのと同じことです。

僕らは、同じ原理や同じエピソードを話すときに、目の前の相手の反応などをみながら、積極的に細部を変えながら、微調整を繰り返しますよね。

このときに僕らが必死で試みていることは、自分の頭の中にある「情報」を相手の頭に合わせて「コピー」しようとしているわけです。

そしてこれは口伝に限らず、きっと写経においてもそうだった。

複製物を作り出すときに、読む読者のことを想定して、積極的に同じ情報を伝えるために、違う情報を書き変えていたはずなんです。

そして、現代においても、ある意味ではそれが続いていて、たとえば、同じドストエフスキーの『罪と罰』を読むと言っても、原文なのか翻訳なのか、翻訳であっても江川卓訳か亀山郁夫訳か、それがハードカバーなのか文庫なのか、ロシアで読むのか、日本で読むのか、そんな自分の置かれている状況においても全く別の作品になっているにも関わらず、それらを僕らはすべて「同じ『罪と罰』」を共有するための手段として、触れているわけです。

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ここまでの話を逆の方向から語ると、いま、僕らは全く同じものをそのままコピーして見せ合っているから、炎上なんかもしてしまうわけですよね。

Twitter上などで、まったく「同じ」デジタルデータに全員が触れるという異常事態が起きていることが、これほどまでに人々の頭の中に「違う」が共有されて、行き違ってしまう理由でもあるわけです。

過激な比喩が含まれたツイートや映像があったときに、その語彙や比喩が一番理解しやすいし腑に落ちる人もいれば、けしからんと怒り出す人もいる。

同じすぎるがゆえに、まったく違う形で相手に届いてしまっているわけですよね。

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そんなことをモヤモヤと考えてくると、同じものを伝えるための手段、同じを共有するときに、共有するための最適な媒介物というのは、一体何なのか。

それを深く考えさせられる。

つまり、そもそも人間が抱いているイデアや、そのときに共有しているコンテクストとは何か、という話でもありますよね。

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そして、そんなカオスな世界に、いまAIという第三の存在が登場してきたわけです。

つまり、それぞれの人間に合わせて、まったく別々の翻訳をし始めてくれているわけですよね。

そのことによって「同じ」が共有されていく。

「同じもの」をAIにつくってと頼めば、その人に合わせた「違うもの」をつくってくれるようになるわけです。

つまり、何かのコピーをつくろうとしたときにこそ、人々の観念的な部分の齟齬が逆に立ちあらわれてくるわけです。

模倣やコピーをしようとするときに、そのひとたちにとって何が「価値」だと認識しているのかも見えてきて、それに合わせたコピーをしてくれる。

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ただ、それはそれで、めちゃくちゃディストピアな世界だなと思ってしまう自分もいます。

なぜなら、みんながまったく違うものを眺めながら、同じだと喜んでいるわけだから。

これから起こることは、NFTのようにまったく同じものが違うものとなり、AIという第三の存在が作り出すような、まったく違うものが同じものになる世界なんです。

その目的は、世界の資本を増殖させ、価値をより最大化し、炎上を避けるために、です。

完全に自然の世界とはあべこべの世界が訪れる。

より一層、猫にはさっぱり理解できない世界になっていくかと思います。

これはもう自己防衛していくしかない。

具体的には、それがフィクションであるということを常に忘れないこと。

都会だけに住んでいると、ついついその思い込みこそが「世界の真理」だと思うようになってしまうはずだから。

そんなことを考える今日このごろです。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。